日本の敗戦から約1カ月後の1945年9月17日、旧満州(現在の中国東北部)の「瑞穂村」で開拓団の「集団自決」事件があった。死者は団員の約半数にあたる495人。滋賀県甲賀市の人権擁護推進員、竹口拓志さん(65)は、姉3人と兄2人がこのとき亡くなった事実を昨年初めて知った。生前、何も語ろうとしなかった両親の沈黙の意味と深い苦悩も......。(栗原佳子/新聞うずみ火)

両親の思い出を語る竹口さん

 

「母は毎晩毎晩うなされていました。常に子どもの夢を見ていたんじゃないでしょうか。母にとっては、生きることも地獄だったことでしょう」
82年に67歳で他界した母、ツヤ子さんの胸中を推し量り、竹口さんは声を落とした。「いま思えば、母が声を出して笑ったのを見た記憶がないのです」。

昨年、竹口さんは一冊の古本を手にした。『第三次開拓団 あゝ瑞穂村』。父、楠雄さん(享年97)と母、ツヤ子さんが入植した旧満州の「瑞穂村」の「村史」で、元開拓団員らが82年に編んだ記録集だった。竹口さんが開拓団の手がかりを探していると知り、「甲賀・湖南人権センター」の職員がインターネットで探してくれたという。

どっしり重く分厚い冊子。元開拓団員らの寄稿文の中に思いがけない名前を見つけ、竹口さんは仰天した。6年前に他界した父、楠雄さんの手記が載っていたのだ。表題は『思い出したくないこと』。
《私の妻は子ども五名を手にかけて殺して居ります――》
そこには、初めて知る衝撃の事実が記されていた。竹口さんは「最初は涙が出て、とても読むことができなかった」と振り返る。

元開拓団員の寄稿文集『あゝ瑞穂村』

 

「王道楽土」の現実
31年の満州事変をきっかけに翌32年、日本はいまの中国東北部に傀儡国家「満州国」を建国。「王道楽土」、「五族協和」のスローガンのもと、国策により日本の民間人27万人を「満蒙開拓団」として送り出した。瑞穂村もその一つ。34年、第3次試験移民としていまの黒龍江省、ソ連国境に近い草原地帯に入植した。全国各地の出身者からなる混合開拓団で、竹口さんの両親は熊本から募集に応じた。そして、5人の子どもを授かった。

敗戦後、「満蒙開拓団」は集団自決などで7万2000人の死者を出し、敗戦間際に召集された人の多くはシベリアへ抑留された。残留孤児・婦人も膨大な数に上った。
「瑞穂村」も悲劇に巻き込まれた。『あゝ瑞穂村』には村の形成から崩壊までが克明に記録されている。45年8月当時、入植者は1056人。このうち「集団自決」で495人が死亡。生き残った人も辛酸をなめ、46年5月、ハルピンで生存が確認されたのはわずか71人だったとされる。
(続く)

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