◆またも「捨て石」に沖縄の怒りの声を聞く
沖縄の日本復帰から5月15日で41年――。1972年のこの日、沖縄の施政権は日本に返還された。しかし、復帰41年になるいまも、国内の米軍専用施設の74%が集中するなど、沖縄は重い基地負担を強いられている。

その沖縄で「屈辱の日」と呼ばれる4月28日、政府は「主権回復」を記念する式典を開催した。沖縄を切り離し、米軍に差し出して実現した「独立」を祝うという度しがたさ。式典に抗議して、沖縄では大規模な集会が開かれた。象徴的に掲げられた言葉は「がってぃんならん」。納得できないという意味のウチナーグチだ。その怒りと不信は、政府だけでなく、それを許す日本の社会にも向けられている。(ラジオフォーラム 栗原佳子)

「屈辱の日」沖縄大会。若者たちも壇上でアピール

 

沖縄での抗議集会は4月28日、政府が東京で開いた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」と同時刻に設定された。「政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」。県議会の中立・野党会派を中心とする実行委員会が主催した。

会場の宜野湾市・海浜公園屋外劇場は満杯。すり鉢状の客席は通路まで埋まり、入りきれない人が外にもあふれた。家族連れ。車椅子のお年寄りもいる。ゴールデンウイーク、しかも日曜にも関わらず、主催者発表で1万人が参加したという。
集会はテーマ曲『沖縄に返せ』の合唱でスタートした。沖縄民謡界を代表する若手の唄者、与那覇徹さんらの三線のリードで、腕を組み、声を合わせる。
<沖縄を返せ 沖縄『に』返せ>――。

沖縄返還運動の中、全国で歌われた『沖縄を返せ』が原曲だが、「を」から「に」という一字の違いで、意味は全く変わってくる。Tシャツや鉢巻きなど、緑色の何かを身につけた人たちが多い。平和で緑豊かな島の実現を願うシンボルカラーだ。

◆「平成の沖縄切り捨てだ」
この日の登壇者に、84歳の中山きくさんがいた。県立第二高女時代、補助看護婦として沖縄戦に従軍。戦後は教師になった。
「この大会と同時刻に政府の式典が行われていることに憤りと無念を感じます。政府の式典は、61年間の沖縄の苦悩を全く省みない、歴史認識を欠いた心無い行為。まさに平成の沖縄切り捨てではありませんか」

「政府式典は平成の沖縄切捨てだ」と訴える中山きくさん

 

本土防衛のための「捨て石」とされた沖縄戦。その大きな教訓が「軍隊は住民を守らない」というものだった。しかし沖縄は、1952年の4月28日のサンフランシスコ講和条約発効で日本から切り離され、外国の軍隊である米軍の施政下に置かれた。「銃剣とブルドーザー」による強制的な土地接収、人権じゅうりん。過酷な米軍の圧政の源流となる「4.28」を、沖縄では「屈辱の日」と位置づけるようになったが、それを政府は「完全な主権回復」の節目として寿ぐという。沖縄の苦難の歴史と共に歩んできた中山さんは、物柔らかな声のトーンに怒気をはらませた。

「戦後68年、復帰後41年のこんにちも、61年前の4.28から背負わされた苦難の道が続いています。米兵による事件事故、協定違反で飛び回るオスプレイ、米軍戦闘訓練など、戦争を想起させる現状は戦争体験者の私には平和とは言い切れません。何事にも限度があります。これ以上の沖縄差別を許すことはできません」

146センチと小柄。主催者が用意した踏み台に登り、中山さんは思いを訴えた。沖縄に9つあった学徒看護隊有志でつくる「青春を語る会」の会長でもある。同会は、県民大会などに積極的に参加してきたが、今回は高齢などの理由で参加を見送った。その代わり抗議声明を出し、この日は各自が紺色のリボンを身につけ抗議の意思を示すことに決めていた。中山さん自身も膝を傷め参加は諦めていたが、強く請われて急きょ登壇を決めたという。

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