父が沖縄で戦死してから1カ月後の6月1日、片山さんが住んでいた大阪市大正区は400 機を超えるB29の来襲で火の海に包まれた。第2次大阪大空襲だった。そこで片山さんは当時24歳だった母をも失う。(矢野 宏・新聞うずみ火)
◇辛かった母の日のカーネーション
片山さんは当時の様子をこう語る。
「母は美容室へ行くと言って出かけたまま帰らぬ人となりました。壊れた防空壕に横たわる母の遺体を前に、祖母が絞り出すような声で『よう見ときや、これがお母ちゃんやで』と叫んだ言葉が今もはっきりと耳に残っています。母は24歳でした」
当時、片山さんは4歳、妹は2歳。その後、2人は父方の祖母のもとに引き取られた。
「サツマイモの蔓をちぎるのを手伝ったりしていましたが、日暮れになると寂しくて悲しくて泣いてばかりいたのを覚えています」
戦争が終わっても食糧事情は悪く、姉妹は見知らぬ家庭に養女に出される。片山さんは2度とも「おばあちゃんの家に帰る」と言って泣くので戻されたが、妹は帰ってこなかった。
「中学校の時、妹に会いたくて、何か手がかりはないかと仏壇の引き出しなどを探していると、祖母もわかったのでしょうね。『あの子は今、幸せに暮らしているのやから、会ったらだめ』とひどく叱られたことがあります。妹とは生き別れです」
片山さんは、戦災孤児になって迎える「母の日」が一番つらかったと振り返る。
「学校で、お母さんのいる人は? と尋ねられ、いる人には赤いカーネーション、いない人には白いカーネーションが配られました。嫌でしたね」と話したあと、こうも言い添えた。
「両親がいない。しかも貧しかったこともあって、何かにつけて卑屈になるわけですよ。頼る人もいないから頼ることもできない。何でも自分で解決しようとあがくのですが、なかなかいい方向にはいきません」
中学を卒業して就職する道を選んだが、「大きな企業からは親がいないだけではねられた」という片山さん。「実は、両親は父方の親に反対され、駆け落ち同然で母の実家で暮らしていたのです」と切り出した。
「父に赤紙が来たとき、京都の実家にいなかったので憲兵が来て『息子を逃がしたのではないか』と祖父を厳しく責めたてたそうです。兵隊にとる時には強引に取るくせに、死んだあとは知らん顔。遺骨も返してくれないなんて、許せないです」
【矢野宏・新聞うずみ火】