第一回「王族虐殺事件とマオイストの台頭」
マオイストたちの活動拠点のひとつルクム郡ソバ村の遠景。(ルクム郡ソバ村ルクムコット) |
ネパールの歴史始まって以来の大事件について、最初の一報を聞いたのは、2001年6月2日午前3時すぎのことだった。当時のコイララ首相の側近と親しい政治学者の友人が、電話で首相官邸から 聞いた話として伝えてきた。
「ディペンドラ皇太子がビレンドラ国王とアイシュワルヤ王妃を殺害したあと、自殺した」
耳を疑いながらも、すぐにテレビのスイッチを入れると、CNNがすでにこのニュースを特報として伝えていた。
この夜、おそらく、カトマンズに住む何千という人が、電話を通じて同じ内容の話を聞いたであろうことは予測がつく。
この日朝から、政府による情報統制がしかれるなかで、限られたメディアや電話などの口コミから入ってくる情報により、次のような事件の詳細が明らかになっていった。
カトマンズの中心部にあるナラヤンヒティ王宮内で、6月1日夜、王族による定例の晩餐会が開かれた。その席でディペンドラ皇太子が銃を発砲し、皇太子の両親であるビレンドラ国王夫妻と妹のスルティ王女、弟のニラジャン王子など、合計8人の王族が死亡。
皇太子は犯行後、みずから頭を撃って自殺を図った。皇太子と国王の末弟のディレンドラ王子は4日に息を引き取り、結果的に、ビレンドラ国王一家全員を含む王族10人が亡くなるという前代未聞の事件となった。
亡くなった10人の遺体はすべて、検視を受けることもなく、すぐに荼毘に付された。そして、王室は事件に関して口をつぐんだ。
王室や政府からの情報が滞るなかで、インドのテレビ局やBBCなど多くの外国メディアは、目撃者や親族への取材を通じて、「好きな女性との結婚を反対されたディペンドラ皇太子が、酔って発砲した」とする説を報道した。しかし、この説を信じないカトマンズ市民は、真相究明を求めて街頭デモなどを行い、一時期、暴動にまで発展した。
次のページへ ...