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‐‐しかし、この運命の日にわざわざ運動会を重ねるというのはどういう意図なのであろうか。事件の際には、今日ここに集った民族同士、血で血を洗う戦いを演じているのである。そのわだかまりは半世紀以上を経た今でも完全に消えてはいない。
毎年、この日に台湾政府は簡素ながらも慰霊祭を催してきた。この日が来るとわたしは、よくこの慰霊碑前にでかけた。数年前までは、ほかに誰も日本人が参加していないことが多かったからである。一人ぐらい、隣の運動場(今は電力会社の敷地になっている)に幼い一生を終えた子供たちに、そして山に眠る 1000名の先住民の霊に手を合わせる日本人があってもいいのではと考えたのである。
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わたしが初めてここを訪れたとき、降りるところがわからず、まごまごしているわたしに、バスの中の、明らかに漢民族とは異なる山の人たちが、口々に日本語で指示してくれた。降り立った「町」はひと目で見渡せるほど小さく、老人たちは今でも日本語交じりの言葉を話していた。
この平和な里でかつて本当に、1000人以上の命が奪われるような惨劇が起きたのか。いかにしてこの穏やかな民と日本人が、お互いの民族を抹殺しあうような最悪のジェノサイドに至ったのか‐‐。
台湾中部・霧社は、きょうもまた薄い靄の中にある。
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