野中
その辺は現場で見ていてどうですか。
綿井
僕もよくテレビ局や新聞社の編集局を訪れたりしますが、今そこで聞こえてくるいちばん大きな音はパソコンを叩く音とテレビの音なんです。東京でもバグダッドの支局でもテレビはBBCからCNN、アルジャジーラまでいろんなモニターをずっとつけている。昔のような「チッカー」(外国通信社の配信記事を印字する機械)はなくなり、テレビやインターネットから第一報を知るようになっています。そして、そのテレビを観て原稿を書く記者がいるわけです。

昨年4月にバグダッドが陥落した後、全国紙の知り合いの記者と会いました。
「戦争中どこにいたのですか」と尋ねると、「ずっとアンマンにいた」と言うんです。で、アンマンで何をしていたのかを尋ねると、「アンマンにいなきゃ記事が書けない」と言うんですね。僕はアンマンでしか取材できない「現場」があるのかと思いきや、「アンマンでCNNやBBCのテレビを視れる環境のホテルじゃないと、ちゃんとした記事が書けない」と言うんです。他の記者に訊いても、テレビを観て記事を書くことは、今回に限らず普段もよくあるということでした。

テレビの映像が、ことの全てを、ありのままに映し出すことはありえないですし、それは何かを主観的に切り取ったものでしかないわけです。
フランスの思想家ボードリアールさんが「テレビの映像が現実を隠す」という言い方をしています。僕も映像の仕事に携わっているわけですが、「映像は何かを映し出す一方で、何かを隠している」と、いつも思っています。視聴者が「テレビを観ていてよくわかりました」というのならまだいいんですが、彼らに伝える側がテレビメディアの影響を受けていて、それに引きずられ、それを確認するだけの作業になっているんじゃないかと感じます。

辺見
ボードリアールの話が出たけれど、「アンリアルなものがリアルになっている」という説には結構賛成なんですよ。つまり、人間もテレビに出ていなきゃ講演料も違い、一人前だと認めらないのと同じように、戦争もテレビに映っていなければリアルじゃないということになってしまう。リアルなものが逆転してしまい、擬似的なものが現実だと倒錯して関係の中で世界が見られている。

実際に行けば空気も匂いも手触り感も違うわけだけれど、そのことにパソコン世代達は疑問を抱かず、つるつるした画面の中に世界があると思っている。世界はある意味でテレビに席巻されたと思っているんだよ。80年代後期くらいから取材していて変だと思うのはそれなんです。

ワシントンからいくら経っても原稿がこない場合はCNN見て原稿を書いてくれ、と言ったりしたこともある。ワシントンも実はホワイトハウスに取材に行っていなくて、東京と同じくCNNを観ているんです。日本のマス・メディアの構造は世界に例をみない取材プロセスがあり、肝心の現場については皆さん(=フリーランスのジャーナリスト)を安く使っているわけです。

ワシントン特派員といっても、生の取材からAP、ロイター、UPIとは別のオリジナルなものを出すことは皆無に等しい。では何故置いているのかというと、面子や対面のためですよね。(続く)

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