父はカメラマンだった。NLDマンダレー支部の行事では必ず父が撮影した。日頃は、結婚式の撮影や写真の復元などの仕事をして生活の糧を得ていた。父と娘だけ二人きりの家族だった。ときどき一緒に出かけては、写真の撮り方を教えてくれた。「構図が大事だとよく言っていました。光がこういう時は絞りをこうしろとか、写真の撮り方の基本的なことを教えてくれました」と、セインセインフラインは話した。
NLDのマンダレー支部で事件前まで売られていたウーモーウー撮影の写真を見た。演説するスーチー女史と聴衆がしっかりとした構図で捉えられている。かなり経験を積んだプロの写真家であったことがわかる。 「父は日頃カメラをカメラバッグに入れていました。けれどもNLDの遊説旅行の際はいつも、シャンバッグ(ビルマ伝統のショルダーバッグ)に入れていきました。あの日、私が父のカメラをあのシャンバッグに入れ替えて用意しました」と、セインセインフラインはあの朝のことを振り返る。
しかし、彼女の元に戻ってきたのは、その白いシャンバッグひとつだけだった。見ると、バッグは、大きく破り裂かれ、ところどころに染み込んだ血痕が残っていた。
彼女の元には事件後、軍情報部員が3度訪れ、父の顔写真を持って行った。その度に父の行方を尋ねたが、今の今まで当局からは何の連絡もない。
「ウーモーウーは現場で亡くなりました。女性を庇って一番上で殴られ続けたためです。彼は頭と口から血を流していました」と、ウーモーウーと同じ車に乗り自らも襲撃にあったNLDマンダレー支部党員の男性(58歳)は、匿名を条件に証言した。
「娘に伝えてくれ。娘のことを頼む」。
それが、ウーモーウーの最期の言葉だった。〈続く〉
今後の連載予定
第2回 ろうそくの光に包まれた町
第3回 スーチー暗殺事件の可能性
第4回 事件はなぜ起こったのか
第5回 ビルマは夜明け前なのか