民主化勢力の巻き返し竏茶lパール会議派党首の発言が王室を脅かす
「10月4日クーデター」のあと、主要政党は国王が“考え直す”ことを期待して、しばらく様子を見守った。しかし、国王にまったくその気がないことがわかると、主要政党は公に国王批判を始めた。その先頭に立ったのが、王宮虐殺事件当時に首相を務めたギリザ・プラサド・コイララだった。

ネパール会議派の党首でもあるコイララは、1962年に現国王の父にあたる故マヘンドラ国王がやはりクーデターを起こしたとき、逮捕・投獄された当時のビセスワル・プラサド・コイララ首相の弟にあたる。この当時から、コイララ家率いるネパール会議派は、王室にとって、ある意味で共産系政党以上に面倒な存在だった。

コイララ党首は「国王が国民の意思の流れに反して泳ごうとすれば、この国に王室そのものがなくなるだろう」と警告したばかりでない。機会あるごとに、「王宮虐殺事件以降のネパールの政治展開は、“グランド・デザイン”にもとづいて計画されたものである」と、現国王が絶対権力を掌握することを目的に、王宮虐殺事件を起こしたことをほのめかす発言を始めたのである。

2003年1月1日に開かれた党員集会では、「国に不安をもたらすのを避けるために(王宮事件について)これまで沈黙を保ってきたが、話すときがきたらすべてを明らかにする」とまで話している。
コイララの発言がどれだけ真実にもとづくものかは不明だが、国王が権力を望んだ意図は王室予算の急増にも見て取れる。国王が絶対権力を掌握したあと(2003年度)の王室関連予算は、王宮虐殺事件で王族の数が減ったにもかかわらず、その前(2001年度)の予算と比べると約6.6倍増えているのだ。

2003年1月になると、最大2政党であるネパール会議派とネパール共産党統一マルキスト・レーニニストを含む主要政党は、国王の動きに抗議して合同で街頭運動をすることを決定した。
ところが、彼らが実際に運動を始めるのは、5ヵ月も先のこととなる。「国家の重大事」が彼らの運動開始を結果的に阻止する形となったのだ。それは、マオイストと政府のあいだの停戦合意である。 <続く>

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