石垣市立図書館に二日通ったあと、わたしは石垣市教育委員会に大田さんを訪ねた。大田氏は、もっとも早期に八重山を訪れた研究者として田代安定に昔から注目をしてきたと言い、貴重な資料を見せてくれた。(写真右:石垣市「20世紀のわだち」より)
それは、田代が明治政府に提出した調査報告書の草稿で、田代の直筆らしく、八重山開発の必要性と可能性を熱心に政治家に説いているものだ。が、それは、こうした遅れた地方が日本領内にあるのは許せないといった義憤に基づき、あくまで内地の立場から八重山の活用法を考察したものである。
そういう時代だったということもあるが、大田さんは、田代のそうした姿勢に厳しい目を向けておられた。
石垣での田代の姿が映った写真が一枚だけ残っている。それは田代の八重山研究から二十年以上もたった明治39年に当地を再訪したときのもので、場所は大浜用要宅の庭とある。
大田さんは、市の中心に近い、その大浜宅に連れて行ってくれた。八重山伝統の邸宅で、立派な庭がついている。現在誰が住んでいるのか知らないが、かまわずずんずん入っていくのが、八重山らしい。大田さんは、きっとここで撮ったのだと指を指した。
ついで田代も訪れたであろうという、島の東北部の廃村に案内してもらう。往復におよそ二時間。石垣はけっこう大きい。田代たちは、徒歩あるいは馬でこの道を往復したのであろう。それは冒険としか言いようのない調査旅行だった。田代のあとに当地を訪れた冒険家、笹森儀助は、その旅を「南嶋探験」と表現している。
石垣での宿は、姜信子さんに紹介してもらった民宿「きよふく」。石垣牛の焼肉を食べたあと、相宿となった土井敏邦氏と缶ビールを飲む。彼は、イラクから帰ったばかりだという。ふと砂漠と血の匂いがする。
(2004年1月X日)