3月20日、ミャグディ郡ベニをマオイストたちが襲撃した。
このベニ襲撃事件はマオイストたちにとっていかなる意味があったのか。その詳細を取材した。
◆襲撃の前触れを察知できなかった治安部隊
一体、マオイストが何の目的で撮影したのかは不明だが、治安部隊が押収したビデオテープには、人民解放軍西師団の司令官“パサン”ことナンダ・キソリ・プンをはじめとするリーダーや武装ゲリラが、襲撃行に出発する様子が映し出されていたという。
テープに記された日付からすると、ベニ襲撃のために出発したのが襲撃の5日前であったことからも、壮行会が開かれたのは、マオイストの“本拠地”であるルクム郡あるいはロルパ郡の東部であることは間違いない。襲撃隊の中心勢力はダウラギリ峰南部の山岳地帯を通り、5日間歩いてベニを襲撃しにきたのである。
パサン率いる人民解放軍の西師団は、昨年はじめに西ネパールの4つの旅団から結成された。その後、東ネパールでも東師団が結成され、現在、人民解放軍には2つの師団がある。マオイストの本拠地であるロルパ・ルクムの武装ゲリラを中核部隊とする西師団は、東ネパールの部隊よりも戦闘経験が豊富で、“エリート部隊”ということもできる。ちなみに、東師団の司令官“アナンタ”ことバルサマン・プンもパサンも、ロルパ郡出身のモンゴル系マガル族である。
ベニ襲撃には、この西師団に属する4つの旅団すべてが参加していた。押収されたビデオテープのなかで、襲撃部隊の人数をパサンは「14,500人」と言っている。この人数に多少の誇張がある可能性もあるが、人民解放軍兵士とそのサポート部隊、そして強制的に参加させられた一般人の“ボランティア”までを含めると、1万人以上の人数で襲撃にきたことは間違いないようだ。
それにしても、これだけの人数が5日間かけて歩いて移動してきたのである。治安部隊側に前もって襲撃の情報が入ってもよさそうなものだが、「最初に飛んできた弾が、最初の情報だった」と、ベニに駐屯する王室ネパール軍のシュリ・カリ・プラサド大隊を率いるネパリー中佐は、襲撃は青天の霹靂だったことを認めている。
しかし、ベニ・バザールの人々と話しをすると、襲撃の前触れとも言える出来事がいくつか起こっていたことがわかる。たとえば、襲撃の15日前から、マオイストは周辺の村からベニ・バザールへの物資と人の移動を制限しだした。数日前からは、情報がベニに伝わるのを防ぐために、村から他の村への人の移動を禁止している。
さらに、襲撃の12日前に、ベニから歩いて1日のところにあるチムコラ村で16人の若者がマオイストに連れ去られた。筆者はベニで、このうちの13人に会って話しを聞いたが、彼らはマオイストの食事を作ったり、襲撃の際に、負傷者を運んだりする仕事をさせられるために拘束されたのだった。
こうした“前触れ”は実はベニ襲撃のときだけでなく、ほとんどの大規模襲撃の際に起こっている。しかし、治安部隊側はこうした前触れを感知することができなかった。
「村人はマオイストに知られることを恐れて、なかなかわれわれに協力してくれない」
ネパリー中佐は情報収集の難しさをこう話すが、一般人を無差別に殺害しているケースが全国で多数報告されている治安部隊を、村人が信用しないこともまた事実である。
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