人民解放軍の襲撃現場
2001 年6月1日に当時のビレンドラ国王夫妻を含む王族10人が死亡するという"王宮虐殺事件"が起こって以来、ネパールは政治的混乱という泥沼から抜け出せないでいる。その最大の原因は、反政府武装勢力であるマオイストことネパール共産党毛沢東主義派が1996年から続けている人民戦争の激化にある。
現在、この国の農村部の大半がマオイストの影響下にあるために、警察・軍や行政機関は多くの郡で郡庁所在地のみに存在し、その他の地域は実質的な"行政の空白域"となっている。その結果、2002年5月に国会が解散されて以来、議会が存在しない状況が続いているにもかかわらず、選挙も実施できない状況にある。
マオイストの問題が解決されないかぎり、ネパールはこの泥沼から抜け出せないと言っていい。 この21世紀の時代に、ヒマラヤの王国でなぜマオイストが拡大する結果となったのか。このシリーズでは、さまざまなテーマからその実態をレポートし分析するとともに、マオイストに関連した最新の情報を現地からお伝えしたい。
◆指揮官パサンと人民解放軍
完全に地下に潜行して活動しているマオイストの幹部と会うことは困難だが、もし、「マオイストのリーダーの中の誰か一人と会わせてくれる」と言われたら、私は迷うことなく、党首の"プラチャンダ"ではなく、「"パサン"に会いたい」と答えるだろう。
"パサン"ことナンダ・キソル・プンは、マオイストの人民解放軍に二つある師団のうち、西師団を率いるコマンダー(指揮官)である。現在、40歳前後とみられるパサンは、マオイストの本拠地である西ネパールの山岳地帯ロルパ郡ランコト村でモンゴル系マガル族として生まれた。
もともと、ロルパの村にある小学校で教師をしていたパサンは、ネパール共産党毛沢東主義派が1996年に人民戦争を開始して以来、武装闘争の現場で指揮をとるコマンダーとして頭角をあらわした。マオイストは2000年11月にドルパ郡の郡庁所在地ドゥナイで、最初の組織的な襲撃を決行したが、それ以来、パサンはほとんどの大規模襲撃を指揮してきたと見られている。
マオイストの党幹部は党首プラチャンダやイデオローグのトップDr.バブ・ラム・バッタライをはじめとして、ほぼ全員が人民戦争を開始する以前から党中央のリーダーとして活動してきた人たちだ。そのほとんどが"バフン"と呼ばれるヒンドゥー教のなかで最高位にあたるカーストに属する。
一方で、マオイストの武装勢力の中核である人民解放軍のコマンダーは、人民戦争開始後に現場で抜擢されてきた人がほとんどだ。したがって年齢も若い。たとえば、今年5月半ばに"内部の事故"により死亡した、人民解放軍のなかでもエリート中のエリート部隊"マンガルセン第一旅団"のコマンダー"パリバルタン"ことネプ・バハドゥル・K.C.は31歳だった。
人民解放軍のメンバーには、西ネパールのマガル族や東のライ族・リンブー族、平野部のタルー族といった"民族系"の人たち、そして"ダリット"と呼ばれる低カーストに属する人たちが多い。これまで、ネパール社会のなかで支配者層からはずされてきた"抑圧された階級"に属する人たちと言ってもいい。いまだにカースト制度や民族差別が根強く存在するネパールで、平等社会の実現を謳っているマオイストだが、党幹部を最高カーストのバフンが占めるという点で、彼らも他の主要政党と変わりはない。
一方で、武装闘争の現場で指揮する人民解放軍のコマンダーには、彼らの本拠地であるロルパ郡やルクム郡のマガル族出身者が多い。西師団のコマンダーである"パサン"も、東師団のコマンダーである"アナンタ"ことバルサ・マン・プンもロルパ郡出身のマガル族である。安全なシェルターから指揮を発する党幹部のバフンたちではなく、襲撃の現場を指揮する彼らこそがマオイストの武装活動の中核をなしてきたわけだ。
"パサン"の名は西ネパールで大規模襲撃があるたびに、ネパールのメディアで取りざたされてきた。しかし、彼の実像は他のコマンダーたちと同様に、それほど知られていない。パサンを知るロルパの教師は、彼のことを「ただのギャング。
マハ・ムルカ(大ばか者)だ」と言った。かつて、ロルパの山中で人民解放軍を率いるパサンと会ったことのある日刊紙記者は、「人を惹きつける魅力のある人物」と評した。公称「1万人を超える」と言われる人民解放軍西師団を率いるパサンとは、どんな人物なのか。党首プラチャンダの人物像以上に興味がある。
マオイストはこれまで、全国に75ある郡のうち9つの郡の郡庁所在地で軍兵舎や警察署、役所や銀行などを同時襲撃しているが、今年3月20日深夜から翌日にかけて決行された"ベニ襲撃"は、兵力と彼らが使った武器弾薬の量からすると、これまでで最大規模のものだった。師団規模による最初の襲撃だったこの襲撃を指揮したのもパサンである。
ネパールのマオイストの大規模襲撃に関しては、これまでほとんど詳細な事後調査・分析がされていない。私は人民解放軍の実力と戦略を知るために、ベニ襲撃の詳細を取材することにした。襲撃を指揮したのがパサンだった、と伝えられたことにも興味が引きつけられた。襲撃時に指揮官パサンがどんな動向をとったかにも興味があった。
取材のために、襲撃直後の今年3月末と4月末の2度、私はベニがあるミャグディ郡を訪れた。2度目の取材行は、襲撃部隊が往復時にとったルートをたどることを目的とした。その際、ミャグディ郡西部のタカム村で会ったマオイストから、襲撃に関する貴重な情報を得ることができた。これから数回にわたり、襲撃の目撃者やマオイスト自身の証言などから得たベニ襲撃の詳細をレポートしたいと思う。
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