プラビンは興味深い話をした。マオイストがタカム村周辺に集結した18日夜に、彼らはある情報を得、それにしたがって、襲撃決行日を予定よりも2日早めたというのである。
「当初は襲撃を22日夜に決行する計画だった。しかし、18日の夜、ベニに駐屯している軍を率いる士官が襲撃の情報を察知したらしい話を、クスマ(パルバト郡)にいる治安部隊の士官としている無線を傍受した。
そのあとすぐに、われわれは計画を変更して予定を2日早め、20日に襲撃を決行することに決めた」
この決定にしたがって、襲撃部隊の第一陣は19日午後にタカムを出発してダルバンに向かった。このグループはタカムから3時間のところにあるダルバンにはとどまらずに、バビヤチョール村ラナバンまで行き、翌20日の午後までそこで待機した。
ベニまで歩いて数時間のところである。一方、第二陣は19日深夜にタカムを出発して、20日早朝ダルバンに着くと、そこで食事をとった。このグループは同日正午ごろにダルバンを出発し、ベニに向かっている。その際、マオイストはダルバン・バザールの人たちに「今日午後10時にベニを襲撃する」という情報を漏らしている。
マオイストが電話通信塔を爆破してから、バザールの電話は使えなくなっていた。他の通信手段もないために、情報をベニに伝えるすべはなかった。しかも、マオイストは襲撃の2週間前から村人がベニへ行ったり、他の村へ移動するのを厳しく禁じるお触れをだしていた。
こうした情報漏えいの予防手段に関しては、後に詳しく述べるつもりだが、6000人を超える集団が何日もかけて移動しているにもかかわらず、情報が政府側に入らなかった原因は、マオイストが襲撃の前から村人の移動を厳しく禁じる措置をとったからだった。
襲撃の指揮官であり、人民解放軍西師団のコマンダーでもある"パサン"は、第一陣のグループとともにいた。 4人の"従軍記者"も一緒だった。ダルバン・バザールで食事をとった第二陣の部隊は、「21日の朝5時ごろ戻るから、そのころに合わせて、朝食を用意しておくよう」バザールの各戸に指示を出していた。プラビンによると、当初の計画では、21日の早朝明るくなるころには襲撃を終えて戻る予定だった。しかし、襲撃は予定よりも長引いた。