アルトゥンゲ山の山腹にマオイストが81mm臼砲を設置した跡(砲弾の黒い空筒の置いてあるところ)。この近くにさらに、2機の2インチ臼砲を設置した跡があった。マオイストはベニを囲む山の山腹3箇所に臼砲を設置した。

パサンは現場近くで襲撃を指揮していた
襲撃は午後11時5分過ぎに始まった。まず、ベニの北西と南側にそびえる山の山腹の、少なくとも3箇所に設置された2インチ臼砲と81mm臼砲から軍兵舎などに対する援護射撃が始まった。

当夜、ベニに駐屯していた王室ネパール軍の大隊を率いる中佐は、襲撃が始まったときの様子をこう話す。
「突然、上のほうから臼砲による攻撃が、そして遠方から機関銃による射撃が始まった。その直後、兵舎の東側(ベニ・バザール側)と西側(マンガラガート・バザール側)の至近距離から攻撃してきた」

ベニの裏山とカリガンダキ川の方からバザールに進入したマオイストの襲撃部隊は、民家の庭を通り抜けて、まっすぐにバザールの南の端に向かった。ベニ・バザールに住む元グルカ兵は、そのときの様子を詳細に話した。

「午後11時5分すぎに銃声を聞いた。その10分後、迷彩服を着た10数人のマオイストが家の後ろの窓を開けて入ってきたと思ったら、家の中を通り過ぎて、表の路地に出て行った。彼らのうち2人は女性で、皆、顔に黒いパウダーを塗っていた。SLR(自動装填銃)やインド製のINSASライフルを担いでいる者も見た」

襲撃部隊はバザールの南側を流れるミャグディ川に沿って、郡警察署などの政府の建物が並ぶ通りに面する3階から4階建ての民家に押し入ると、屋上に上がり、そこから射撃を開始した。郡警察署を東の端に、電話通信塔、郡行政長官公舎、郡裁判所、郡行政事務所と郡開発委員会など政府関連の建物が川に沿って一列に並ぶ。どの建物も一階か二階建てで、通りの向かい側に並ぶ民家のほうが高い。襲撃には格好の立地と言っていい。

ベニ襲撃の直後、さまざまなローカル紙がパサンがどこから襲撃を指揮したかに関する憶測を書いた。ある週刊紙はカリガンダキ川の対岸と書き、ある日刊紙はアルトゥンゲ山の上と書いた。しかし、パサンが実は襲撃現場の近くにいたことが、パサンと行動をともにした“従軍記者”マンリシ・ディタルの記事から推測できる。彼は、マオイストの機関紙「ジャナデシュ」に掲載した記事のなかでパサンの行動を次のように記している。

「通信機を使って暗号で指示を出しながら、師団指揮官パサンは彼のチームとともに山を下った。パサンは誰かに向かって、“われわれの部隊はすでに兵舎の近くに到達した。まもなく襲撃を開始する。スタンドバイしてくれ。町はすでにわれわれの部隊に包囲された”と話していた」

タカム村で会ったマオイストの“プラビン”に、襲撃のあいだパサンはどこにいたのか尋ねると、「アルトゥンゲ村の1地区と2地区だ」と話した。これは、ベニ・バザールそのものと、その裏手にある高台の一帯を示す。パサンはおそらく、襲撃が始まった当初は、ベニ・バザールの裏手にある高台から、襲撃の様子を見ながら指示を出していたのだろう。ディタル記者は、さらにこう書いている。

「11時ちょうどから、経験豊かな(人民解放軍)メンバーの“アグニ”が少なくとも2千メートル離れたところから、81mm臼砲を15分間継続して撃った。・・・・・・開始から51分たって、師団指揮官パサンが砲弾部隊に射撃を止めるよう指示を出した。そして、全部隊に前進して郡庁所在地に侵入し、有刺鉄線を切断するよう指示した」
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