◆「マオイストは次から次へと、まるで波のように押し寄せた」
ベニ襲撃ではマオイスト側に100人近い死者が出ているが、党首“プラチャンダ”は直後に声明を出して、旅団の副指揮官2人と大隊の指揮官1人、副指揮官1人がこの襲撃で犠牲になったことを明らかにしている。ひとつの襲撃で、これだけ大勢のハイレベルの指揮官が犠牲になったのは、おそらく初めてだろう。
この事実から、ベニ襲撃では、人民解放軍の旅団レベルの指揮官までが前線で指揮をとっていたことがわかる。
タカム村で会ったマオイスト“プラビン”によると、第2旅団の副指揮官“ヨッダ”は王室ネパール軍兵舎の敷地内で死んだ。当夜、兵舎には数百人の兵士が駐屯していた。マオイストは兵舎の東に接する英国グルカ兵福祉センターの敷地と、西に接する官僚宿舎の敷地を占拠して、兵舎を挟み撃ちした。ベニに駐屯する大隊を率いる中佐は、マオイストの襲撃の様子をこう語る。
「朝5時ごろ、最初の軍ヘリコプターが飛んできて、そのまま戻っていった。マオイストが兵舎に対して、最も激しい攻撃を仕掛けてきたのは、その後だった」
襲撃が始まってから約6時間後、軍用ヘリコプターが応援にかけつけたものの、陸上からのマオイストの銃撃に会い、何もできずに戻っていった。襲撃現場がバザールと接しているため、民間人を巻き込む恐れがあって、空爆もできなかった。その後、空が明るくなってから、マオイストの軍兵舎に対する激しい銃撃が始まった。中佐は話す。
「朝5時から6時にかけて、最も激しい銃撃戦となった。彼らは兵舎の敷地のなかにまで入って、銃撃してきた。一時期、マオイストは敷地内にある2つのポストを占拠したほどだ。彼らは次から次へと、まるで波のように押し寄せた。女性のマオイストが、15~16発の銃弾を身体に受けているにもかかわらず、木に登っているのも見た」
この女性マオイストの行動を例に挙げ、中佐は彼らが戦闘の際に興奮剤を使用していると主張する。
興奮剤に関する話は、たびたびネパールのメディアで取りざたされてきた。私もベニで証拠を見つけようと試みたが、確定的な証拠を見つけることはできなかった。
現場にプラスチックの注射が残されているのを目撃したという人はいるのだが、戦闘中に興奮剤らしき注射をうっているのを目撃した人は見つからなかった。
この早朝の戦闘で、兵舎敷地内では5人の王室ネパール軍兵士が死亡。襲撃後、一人の女性を含む6人のマオイストの遺体が見つかった。
マオイストの遺体はすべて、英国グルカ福祉センターとの境界近く、大きな岩の近くで見つかった。このなかの一人の遺体の近くでAK竏窒S7が見つかった。マオイストがこのロシア製銃器(“プラビン”によると、このAK竏窒S7は中国製であるという)を使用していることが明らかになったのは、これが初めてだった。
軍兵舎の敷地内に侵入した部隊は、人民解放軍のなかでも選りすぐりのエリート部隊だったと推測できる。“プラビン”が私に明らかにしたところによると、この部隊は、第二旅団の副指揮官“ヨッダ”が死亡したために退去を決めたのだという。「では、兵舎敷地内で見つかった6人のマオイストの遺体のうち、一つは“ヨッダ”のものだったか」と私が問うと、“プラビン”は直接問いには答えず、「兵舎の敷地内で死んだ仲間の何人かは運び去った」と答えた。おそらく、副指揮官の遺体は彼らが運び去ったのだろう。
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