戦争の記憶が原点となる
「開祖と娘~生きていること自体が運がいい」
(少林寺拳法グループ総裁・宗由貴と野中章弘(アジアプレス)との対談です)
野中
戦争の取材に行くと、たくさん人が死んでいたりという光景をよく目にします。そういえば、由貴さんとも一緒にソマリアへ行ったことがありましたよね。
あの当時、80年代の半ばに何百万人という人たちが餓死をしていた隣国のチオピア避難民キャンプなど取材したことがあります。
そこでは毎日早朝、穴掘りから一日の仕事を始めます。なぜ穴掘りをするのかというと、夜の間に体力のない子供とか病人が死んでしまうからなのです。夜の間に死ぬ人たちが一番多いから、まず朝一番、その人たちの遺体を埋めるのです。キャンプのすぐそばにパッーと土盛りが並んでいるのですね。
よく聞かれるんだけれども、そういう取材をしていて悲しくなりませんかって。「ファインダーが涙で曇ってくる」とかいう人もいるけど、僕はそんなことはないのですね。プロだから。死んでいる人間がいたら、その人間はどういうふうな死に方をしているかということを、一番正確にあらわせるようなアングルをとるように動く。いちいちそういうところで涙を流したり、感傷的になっている暇もないわけでしょ。周りも観察しなければ記事は書けないし、写真もきちんと撮らなきゃならない。
それでもやっぱりそういう現場をずっと歩いてきていると、どこかで自分の気持ちも傷ついている部分というのがあるわけです。自分でも意識はしていないんだけれども、何か本当にくだらない、昼のメロドラマか何かを見ているときにすごく涙が出てきたり。やはりどこか傷ついている所があったんだなぁと思うわけです。
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