◆マオイストの支配下にある村
(写真右:)サランゲ・ナーツを踊るコルチャバン村のグループ。各自が手にスティックをもって、前後の人とそれを打ち合わせながら踊る。
ロルパに入って5日目の朝、コルチャバン村ハンニンは、バレーボールの練習をする少年たちの声や、マーダル(太鼓)を打ち鳴らす音で活気に満ちていた。
主催者はマオイストだが、村人たちはこの3日間の“ジャナバディ・メラ(コミュニスト祭り)”を存分に楽しんでいた。それにしても、ここは郡庁所在地リバンから歩いてわずか数時間の距離にあるにもかかわらず、“国”の存在がどこにも見えない。村の治安を守るはずの警察詰め所が、マオイストからの襲撃を恐れて次々に村を離れると、それに伴って銀行や役所も郡庁所在地に引き上げた。
村々に残った“公務員”といえば、学校の教師と保健所のスタッフ、そして郵便局員くらいである。公務員も村ではマオイストの監視下に置かれ、村々にマオイストが樹立した“人民政府”に毎月“税金”を払わなければならない。郡庁所在地以外の村は、実質的にマオイストの支配下にある。驚くべきは、マオイストの本拠地であるロルパ郡やルクム郡だけでなく、ネパールの国土の大半を占める山岳地帯のほとんどの郡が同じような状況にあるということである。マオイストがよく使う「ネパールには現在、軍をもった二つの政府が存在する」という表現が、真実に近いことを身にしみて感じる。
郡庁所在地リバンに駐屯する王室ネパール軍や警察の治安部隊も、徒歩では年に数えるほどしかやってこないものの、私がロルパにいるあいだ、毎日のように軍のヘリコプターが上空を飛んできた。“ジャナバディ・メラ”2日目の朝9時ごろも、東のリバンのほうからグリーンのヘリが飛んできた。ヘリコプターは、まるで「マオイストの“メラ”を開催していることを知っているぞ」と言わんばかりに、会場の上空を2回旋回して戻っていった。
初日の夕方近くにも飛んできたのだが、今朝のように近くまでは来ず、北のタバン村の方へとまっすぐに飛んでいった。ヘリコプターが近づくのを見て、会場の村人たちの間に動揺が広まった。なかには慌てて逃げ出す人もいる。それを見てマオイストが「慌てるな、逃げるな」と叫ぶ。しかし、村人が怖がるのも無理はない。今年に入って、ジャジャルコット郡ではマオイストの集会に向かっていた群衆に、治安部隊がヘリコプターから発砲したり爆弾を落として、一般人の死傷者が出ている。
3月のベニ襲撃直後にも、「人が集まっている」という理由だけでヘリコプターから爆弾を落とし、一般人8人が死亡した。政府側治安部隊は“掃討作戦”の名のもとに、ほとんど無差別に人を殺す。
ヘリコプターは午後3時ごろ再び飛んできて、朝と同じように会場の上空を2回旋回したあと北に向かっていった。爆弾こそ落とさなかったものの、村人が逃げる様子に、彼らが治安部隊に対してもつ恐怖感を垣間見た。
(写真右:サランゲ・ナーツを踊るとき、孔雀の羽を付けた“ゴルラ”を背負ったグループもあった。)
◆マガル族の“戦いの踊り”
“メラ”の会場では、各村から来たグループが、マガル族のもう一つの伝統的な踊りである“サランゲ・ナーツ(サランゲ踊り)”を披露していた。昨日の “パイサリ・ナーツ”が“静の踊り”だとすると、“サランゲ・ナーツ”は“動の踊り”と言える。
マーダル(太鼓)の早いリズムに合わせて、飛び跳ねるようなステップを踏んだり、走り回ったりする。ステップを踏むたびに、腰の回りにつけた“ボンラ”と呼ばれる大きな鉄の鈴が鳴り、手に持ったスティックを前後の人がもつスティックと打ち合わせる。
これをまた、2時間も3時間も延々と続けるのである。かなりの運動量だ。この踊りも、先頭に年長者の“アグワ(リーダー)”がいて、彼の動きを真似ると言う点では“パイサリ・ナーツ”と同じである。ただ、さすがに“アグワ”の年齢は“パイサリ・ナーツ”のときよりは若い。
60代から10代の男たちが混じったグループもあれば、子供たちだけのグループもある。子供たちのグループのなかには、馬とびをしたり、でんぐり返しをしたり、体操の要素を取り入れたところもあった。なかには踊りのなかで“演技”をするグループもある。12歳くらいの男の子たちが、血を真似たのか、顔に赤い色を塗り、2人ずつの組になって殴ったり、殴られたり、“戦い”のシーンを演じている。
「マオイストと(政府側の)軍が戦っている演技だよ」
マオイストの“サンバト”が解説してくれた。
「サランゲ・ナーツは戦いの踊りでもあるんだ。私たちのジャナ・ユッダ(人民戦争)も、彼らが持っているスティックから始まったんだ」
山岳民族であるロルパのマガル族は、理想的な兵士の素質をもつ。一度信じた考えは、めったなことでは転向しないという性格。対立した“敵”とは徹底的に闘う執念深さ。リーダーを信じて、仲間うちでは強い団結力を示す。そして、優秀な山岳ゲリラには必須の体力と山での経験。マオイストのトップ幹部が集まった極秘の会議が、ほとんどロルパで、しかも、住民のほとんどがマガル族である北ロルパで開かれるのも、党のリーダーがここのマガル族に圧倒的な信頼を寄せているからだと想像できる。
マオイストのリーダーがロルパを彼らの“base area(本拠地)”として選んだことは、歴史の必然だと思う。武装ゲリラとして、これほど適した民族が他にいるとは思えない。そのロルパのマガル族の歴史をたどることが、私の取材のもう一つの目的なのだが、これが予想以上に大変な作業であることが次第にわかってきた。
とにかく、歴史が残っていないのである。あとの章で詳述するつもりだが、この地域のマガル族は、外からの侵入者に対抗して生き残るために、自らの歴史を消してきたとしか思えない。言葉も同様である。彼らは、もともと独自の宗教・文化、そしてカーム語と呼ばれる独自の言葉をもっていたのだが、インド・アーリヤ系の人たちが侵入してくるにしたがい、ヒンドゥー教が浸透し、彼らの言葉であるネパール語を話すようになった。
今では、カーム語を話す人たちはロルパ郡のなかでも、タバン村を中心とした北部ロルパと東ロルパの一部、そして、ここコルチャバン村の一部とジャンコット村、コトガウン村などに限られている。興味深いことに、サントス・ブラ・マガル(タバン村)や“パサン”(ランシ村)、“アナンタ”(ジャンコット村)など、ロルパ出身のマオイストのリーダーの多くが、マガル語を話す地域の出身なのである。
サランゲ・ナーツを踊るコルチャバン村の男性たち
ガルティガウン村の子供たちのグループ。サランゲ・
ナーツの途中で、スティックを使ってマオイストと国軍
の“戦い”を演じはじめた。
◆「革命」と「平和」の演説大会
私が踊りを見ていると、右手のこぶしを前に出して、“ラール・サラーム(赤いあいさつ)”をしてきた少女がいた。ガルティガウン村で会った“ディーパ” という党名をもつ10代後半のマオイストだった。人懐こい笑顔が魅力的なディーパは、ダン郡出身のタルー族である。モンゴル系のマガル族とは明らかに異なる顔つきをもつ彼女は、新しい場になじめないのか、一人で会場をうろうろしているようだった。
話しを聞くと、幼いときに次々と両親を亡くし、姉も兄も結婚して、独り身のようだった。家族のところには1年以上も帰っていないと言う。平野部育ちのディーパは、「山を歩くのがつらい。ときには雪のなかを歩かないといけないし」と話す。それでも、「将来は人民解放軍の兵士になりたい」と言う。彼女を見て、昨年3月に北ロルパにあるタバン村に滞在したときに会った、同じダン郡出身のタルー族の女性マオイストを思い出した。タバン村に駐屯していた人民解放軍のエリート部隊の医療スタッフだった彼女もまた、「山歩きがつらい」とこぼしていた。平野部では、タルー族が人民解放軍の主要戦力となっているが、彼らも体力的にはマガル族にはかなわないのだろう。
2日目の夜は、演説大会だった。「革命」と「平和」のどちらを支持するかについて、それぞれの支持者が5分間ずつ演説をし、論を競うというものだ。これはもちろん、マガル族の伝統的な“メラ”で行われるものではなく、マオイストが用意したプログラムだった。「革命支持者」が「革命あって初めて、本当の平和あり」とする演説をしていた。マオイストがよく使う論理である。一方、「平和支持者」のほうは、「バンダ(ゼネスト)ばかり続いて、交通は止まるし、学校は閉鎖されるし、仕事にならない。だから革命は駄目」という、非常に現実的な論理である。演説は夜9時すぎまで続いた。他の思想は受け付けないマオイストだが、ここには少なくとも、彼らと異なる意見を公表できる場が、まだ残っているようだった。
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ダン郡出身のタルー族のマオイスト“ディーパ”
メラの会場を警備していたマオイストの
予備軍“ジャナミリシア”のメンバー