カレン人たちはなぜ戦い続けるのか。タイから国境を越え、カレン民族の解放区へ足を踏み入れたフォト・ジャーナリストの貴重な写真ルポ。

2004年10月19日、東南アジアの西の端、軍事政権(SPDC=国家平和発展評議会)国家ビルマで政変が起こったというニュースが流れてきた。独裁者タンシュエ議長が、ナンバー3であるキンニュン首相を更迭したというのだ。

(写真右:内戦が続く最前線へのパトロールを終え、ビルマとタイの国境線でもあるモエ河を下り、第7旅団の兵站基地へもどる、カレン民族解放戦線(KNLA)の兵士たち。(1997年6月))
実際のところ、軍内部の権力抗争の顛末というだけで、ビルマの民主化へ向けての動きは全くなかった。
政変のニュースが流れる一方、日本では一部のメディアが報じただけだが、同時期、実はビルマ首都ラングーン(ヤンゴン)で、もうひとつの動きがあった。

それは、ビルマ国内で続いている、第2次大戦後以降続く、世界一古い内戦の停戦へ向けての話し合いが開催されるところであった。だがこの和平交渉は、失脚したキンニュン前首相の指導の下で進められていたため、交渉自体が中断することとなった。タイ国境周辺を活動地域とする武装抵抗勢力側=KNU(カレン民族同盟)の和平使節団はこのとき、ラングーンを訪れていた。政変のどさくさに紛れて、その使節団の身に何か起こるのでは、と懸念された。

幸運なことに、軍内部の政変と内戦の交渉は別のものとして扱われ、KNUの使節団は無事、タイ国境の司令部へ戻ることができた。
「国内避難民」60万人、国外難民13万人を生み出す原因となっている内戦は続く。この50年以上続く内戦の実態は何なのか。

ビルマ軍とKNUとの諍いはこれからも続くのであろうか。カレン取材を長年続ける宇田有三(うだ・ゆうぞう)は、60歳代以上の司令官たち(7人)の中で唯一、39歳という自分と同い年の司令官に話を聞くため2000年末、単独ビルマ・カレン州の山の中に入った。

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(写真右:カレン民族同盟軍の総司令部マナプロウが陥落した1995年、ビルマ領からタイ側に逃れて、難民となったカレンの人びと。)

夢うつつの中で迫撃砲の音を聞いた。反射的に時間を確認する。朝5時40分だ。日が昇るまで、まだ1時間半ほどある。この音は、「新世紀」の幕開けの祝砲か。

私は、東南アジアの1角、タイ国境が近いビルマ山中で新年を迎えた。10月半ばから始まる乾季のど真ん中、1年での冷え込みがいちばんきつい時期だ。 35度近い日中の気温は、夜明け前後には5度を下回る。何がつらいかといえば、その気温の差である。床につくのは囲炉裏の真横だ。厚手のジャケットを着込み、さらに毛布を2枚重ね、寒さに耐える。

ビルマ国内での、止むことのない「内戦」は、2001年1月末で53年目を迎えた。カレン人を中心とする辺境諸民族のビルマ軍事政権に対する自治権獲得闘争は、これからも続くようだ。
寒さをしのごうと、火の落ちかけた囲炉裏に身体をすりよせる。カレン語で「プダ」と呼ばれる竹簀の床が、ギシッと音を立てた。

(写真右:ビルマ領からタイ側に逃れたカレン人が作った難民キャンプ。ビルマ政府軍は越境を繰り返し、難民キャンプを焼き討ちした。「タイ側からビルマ側へ戻れ」との脅しを続けた。焼き討ち3時間後、失った長靴を探して、男の子がひとり、焼け跡をさまよっていた。)

砲弾の爆発音は10分ほどでやんだ。静かな夜明け前の静寂が戻る。前日となんら変わらない朝を迎え、鶏ががけたたましく鳴き始めた。

「20世紀は戦争の世紀だった」。過去形で呼ぶのは、ここでは全く無意味だ。また「世紀」という枠組みで彼ら、カレン人の存在を捉えるのも、可笑しい。「新世紀」を迎えたといっても、西暦2001年の夜明けは、カレン歴によると2740年である。とりわけ特筆すべ区切りの年ではない。

「カレン人の土地には、その土地の時間の流れがある」
寝不足と寒さの中、ぼんやりとした頭でそんなことを考える。昨日と全く同じ、平和な村の朝を迎えると、自分が最前線にいることも忘れてしまう。

ビルマは1989年、閉鎖的なビルマ式社会主義政策から開放政策へと方針を変えた。そのため、タイ国境を中心に、密貿易に財政的基盤を置いていたカレン人武装組織・KNU(カレン民族同盟)は、急激に勢力を失い始めた。

さらに、軍政に反旗を翻していた辺境民族集団の結束の乱れ、ビルマ軍の物量作戦による乾季攻勢、12万人を超える難民流出、年々弱体化していくKNUの組織力。
「どうしたらいいのか、われわれは」
タイ・ビルマ国境に点在するカレン人難民キャンプで、避難民によくたずねられた。キャンプの責任者からも同じような質問が発せられる。
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