2月8日に電話が再開したあと5日たって、官憲は彼の自宅の電話を10日間切った。そのため、いったん自宅に戻ったサングラウラ氏は、再び家を離れて友人宅に1週間匿ってもらった。
サングラウラ氏は、政変直後に「カンティプル」紙の編集長から「政治を話題にしたことを書かないでほしい」と頼まれた。彼は、軍からの検閲官が去ったあとも自己規制を続ける最有力紙「カンティプル」の方針を批判する。

「軍からの圧力があっても、報道機関のリーダーとして『カンティプル』が果たせる役割はあった。編集長にも言ったのだが、報道の自由が奪われたことに対する抗議のために、社説を空白にして発行するか、あるいはそれもできないのであれば、編集長は辞任をすべきだった」

週刊紙のなかには、政変後の最初の号の社説や意見欄を空白にして発行した新聞が6紙あり、全紙の編集長がカトマンズ郡行政局に召喚されて聴取を受けた。しかし、民主化後最初の民間日刊紙としてネパールのメディア界をリードしてきた「カンティプル」は、発行の継続を最大のプライオリティとして、規制に従った。

「“軍はカンティプルを閉鎖しようと試みた。もしそうなったら、大勢の雇用者が路頭に迷うことになる。だから継続を最優先としたのだ”と同紙は言うが、『ゴルカパトラ』(政府の新聞)と同じになったら、“政府のopposition(野党)”としての役割をもつ新聞の存在意味がなくなる」

サングラウラ氏は、最大発行部数の「カンティプル」が大人しく規制に従ったのに対して、もっと部数の少ない日刊紙「ラジダニ」や政党とつながりのある週刊紙がリスクを負って報道していると話す。
もっとも、「カンティプル」紙も徐々に規制の枠を破って報道を始めており、15日には国王の宣言に抗議して運動を開始した5政党のデモを大きく一面で報道して、ナラヤン・ワグレ編集長が17日、カトマンズ郡警察署に召喚されて聴取を受けた。

サングラウラ氏自身も、3月16日付けの同紙に「タンコット(カトマンズ盆地への陸路の出入り口)やトリブバン空港で、特定の人物が外に出るのを阻止して、思想の力と拡大を阻止することは不可能だ」と書いて、表現・報道の自由を奪った政府をかなりきつく批判したコラムを書いた。

空気で充満したサッカーボールが少しの力でもよく跳ね上がることを例えに使って、「さまざまな形で抑圧された思想が人の頭に充満したら、“ムルダバード”“ジンダバード”(デモでよく使われるスローガン)の声が爆発する」と書いて、表現の自由が抑圧されるほど、それへの反発が強くなると、現政府のやり方を批判した。
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