報道統制と一党独裁体制
このような「日本政府」「日本人民」の二項対立図式は、五十代以上の中国人に典型的に見られる捉え方である。それは彼らの世代が受けた教育とおそらく関係しているのだが、このことは後で改めて触れることにしたい。

ここで先に指摘しておきたいのは、日本国内ではこれでもかと伝えられている暴動と化したデモのようすは、当初、中国国内では一切、報道されなかったことだ。驚くべきことに、というべきか、かの国では当然、というべきか、「各地で日本への抗議デモが平和裏に行われた」ことになっていたのである。

「社会秩序を乱すおそれのあるニュース」は、国営の新華社を通じて発表される以外、報道してはならないとの通達が出されているため、日中の報道ギャップは相当なものだ。たとえば4月17日の日中外相会談でも、「日本側の謝罪・補償要求に中国側が応じなかった」ことが日本ではクローズアップされたが、新華社の記事では「中国を侵略した歴史について、日本側が再度深い反省と遺憾の意を表し、中日友好の重要性が再確認された」ことになっている。反日デモには一言も触れておられず、まるで外相会談でこの問題は提起されなかったかのようである。

この報道統制という点と関連して、個人的にはちょっとした事件といえる出来事が起こった。情けない話だが、写真を撮ってあやうく公安に捕まりかけたのだ。

 (写真右:写真を撮っている人の姿があちこちに見えるが、この日、居並ぶ警察官がそれを問題にしたようすはない。次の日の私のケースとの違いを考えると、以下の二つの仮説が成り立つだろうか。1.北京の公安当局が問題にしていたのは、デモそのものの写真ではなく、デモで暴力行為があったという証拠写真を撮られることだった。2.4月 9日にデモがあった後で、公安当局の方針が変わった。(4月9日北京 写真提供:イ・ゴンヘ))

北京で大きなデモのあった翌日の4月10日のこと。日本大使館前でも天安門広場でも、どうにもデモにめぐり合えないので、前日のデモの現場を見てみようと、「中関村」と呼ばれる地区へ向かった。北京版・秋葉原の電気街を想像していただければよい。その地区のランドマークになっている雑居ビルで、「デモのあとで、日本の商品を売るのは不安ではありませんか」と、インタビューを試みようと思っていた。

ところが、ビルの周りは普段とはうってかわって、ものものしい雰囲気に包まれていた。黒い制服の警察官がうろうろしている。ざっと見たところ、五百人は超えていただろう。
入り口のドアは閉まっており、
「わざわざここで買い物するために出かけてきたのに、なんで閉まっているのよ!?」

と詰め寄る年配の女性に、ビルの警備員が
「とにかく今日は閉店です。理由はわかりません」
の一点張りで対応している。

後から知ったこと、それも伝聞のまた伝聞のような心もとない情報だが、前日、デモ隊の一部がそのビルになだれ込み日本製の商品を破壊したと、軍内部向けのニュースでは流れていたらしい(日本のニュースサイトでは、日本のメーカーの看板が壊された、とのことだった。実際の被害の程度はよく分からない)。警官たちは前日のような事態が繰り返されないよう、警備にあたっていた、というわけだ。

挙動不審者と化した私は、必死で警官たちの死角に回りこみ、最適と思われるアングルでデジカメをかまえた。パシャッといういつものシャッター音が聞こえるのと、隣に黒い人影を感じるのが同時だった。
「おい。なに撮ってる?見せろ」
要するに、そこは死角でも何でもなかったわけだ。

「この写真はどういう意味だ?お前、なんでここにいる?」
無線で上官が呼ばれて到着するまで、重苦しい時間が流れた。今後も中国で取材を続けていく都合上、その後の詳しい経緯は省略する。何とか事なきを得たとは思うが、ただ、その日撮った写真は全て削除させられてしまった。

私はがっくりとその場を去った。名前を控えられたとき、リストを覗き見するといくつも名前が並んでいたから、同じようにして尋問を受けた人たちが他にもいるのだろう。写真の一枚や二枚も取り締まるなら、その多大な労力を、前日のデモの暴力行為を防ぐことに向けられなかったのか?警官たちの高圧的な態度を思い出すにつけ、憤然たる気分になった。彼らは一体、何から何を守ろうとしているのだろう?

黒い制服に身を包んだ彼らが守っているのは、ビルでもなければ街でもなく、中国人や外国人の安全でもない。彼らが守っているのは、中国という国家そのもの、体制とその威信である。1989年にそうであったのと同じように。

すでに日本のメディアでは、以下のようなことが、繰り返し指摘されている。すなわち、ある時期まで中国当局がデモの発生や拡大を容認しており、国内不満のガス抜き、ないしは対日外交カードとして利用しようとしていたと見られること。あるいは、中国政府は自らの反日教育によって育てた若い世代の「愛国心」の暴走をもはやコントロールできず、ヘタに抑止すれば体制の正当性が揺らぎかねないジレンマに陥っていること。

前者と後者で、当局がデモを積極的に利用する気があったとみるか、手を焼いているとみるかの違いがある。どちらが妥当か、現時点では判断できない(共産党内部の意見の不一致を考えると、両方が正しい可能性もある)けれども、「一党独裁体制の維持」が至上命題化されていることと一連のデモとを切り離して考えることができない、という意味では、これらの指摘はおおむね的を射ていると思う。
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