米軍機の爆撃で子の命を奪われた親の気持ちは......
「厚木基地の滑走路はイラクに通じている」と強調するのは、「厚木基地爆音防止期成同盟」の初代委員長で、現在は「第3次厚木基地爆音訴訟原告団」の団長を務める真屋求(まや・もとむ)さん(78歳)である。

「私たちは長年、爆音に苦しめられてきました。基地を無くし、戦争を無くし、平和な世界にすることが爆音を無くすことにもつながります。かつてはベトナム、いまはイラクと、厚木基地を飛び立った米軍機が爆撃で、罪もない多くの人たちを殺してきました。私たちはその米軍機の訓練を止められないことについて、ベトナムやイラクの人たちに対して申し訳ないと思います」

否応なくアメリカの戦争に加担させられている日本、加担している日本、戦争の加害者の側に立っている日本だが、そのことをどれだけの人が自覚しているだろうか、と考えさせずにはおかない言葉である。

真屋さんは小学校の教師をしていた1960年の春に、東京から土地の安い大和市に引っ越してきて家を建てた。しかし当時、厚木基地が大和市にあるとはまったく知らず、しかも引っ越した頃は基地滑走路の拡張工事中で、爆音を耳にすることもなかった。ところが、同年6月に米軍機の飛行が再開して、爆音に苦しめられることになった。以来、爆音解消と基地撤去を求める住民運動に力を注いできた。

真屋さんが45年間にもわたる住民運動を続けてきた基底には、ひとつの痛切な体験がある。
1961年10月8日の日曜日、自宅の近くにある中学校で開かれた運動会を、真屋さんの長男(6歳)と次男(4歳)が見にいきたいと、折から来訪中の真屋さんのお兄さんにせがんで、自転車で連れていってもらった。真屋さん本人は勤め先の小学校の運動会に出かけていて不在だった。

運動会を見た帰り道、真屋さんのお兄さんが2人の甥を自転車に乗せて、小田急線の遮断機も警報機もない無人踏み切りに差しかかったとき、米軍のジェット機が飛んできた。その爆音で、近づく電車の音がかき消され、聞こえなかったため、お兄さんは電車に気がつかず、そのまま踏み切りを渡って、渡り切る寸前に自転車の後部を電車に撥ねられた。長男は即死し、次男とお兄さんは重傷を負う惨事となった。

この事故で真屋さんが受けた衝撃、悲痛さは、余人には想像しがたいほどのものだったろう。
「それまで、住民運動の始めの頃は、政府に有償疎開の措置を求めていたんですよ。しかし、息子の事故死があってね、もう俺はここを動かんぞ、と腹が決まりました。息子の血が染み込んだ土地を、親が離れるわけにはいかない。離れられないぞ、と...‥。だったら、基地をどかしてやると、爆音解消・基地撤去へと腰が座ったんです」

基地があり、米軍機が、軍用機が空を飛んで爆音をまきちらしていたために、我が子を失うことになった真屋さんは、「戦争があるから、基地がある。軍用機が飛ぶ。だから、戦争があってはいけないんですよ。人を殺す戦争があってはならない」と語る。

「ベトナムやイラクで米軍機の爆撃によって子の命を奪われた親の気持ちは、痛いほどわかります。親は、それはたまらないだろうな、と思いますね...‥」
そうであるがゆえに真屋さんは、米軍基地の存在と米軍機の訓練を許している日本社会が、自分たち日本人が、戦争の加害者の側に立っていることへの心の痛みを、なお一層覚えずにはいられないのだろう。
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