ついに、カレン民族解放戦線の第5旅団司令部に到着。ボジョー司令官は戦うことの意味と苦しさを語った。
(写真右:ボジョーの左のこめかみには被弾の後がくっきり残っている。)
「よく来てくれたね。君がやって来る連絡は入っていたよ。ここまで来てくれたジャーナリストは君が初めてだ。疲れただろう、まあ、ゆっくりしてくれ」
2000年12月27日、KNLA第五旅団司令部があるタダダー村に到着。近くの小川で水浴びを終えたばかりのボジョー司令官が、上半身裸で出迎えてくれた。
引き締まったというより、やせた感じがするボジョー司令官の身体。胸からお腹にかけて、長さ40cmほどの傷跡がある。左のこめかみには、500円玉大の被弾の跡も目立つ。笑って迎えてくれたが、なんだか寡黙な感じのする人だ。軍服を着なければ、精悍な農夫という感じである。
タダダー村には12戸あまり、約500人のスゴーカレン人が住んでいる。司令部はその村のど真ん中、四方を開けた田圃に囲まれているところに位置している。司令部の敷地内には、10mを軽く超える竹林群もある。下から見上げると、胴回りの太い竹は、まるで天を突きあげているかのよう。空の高いところでは風が吹いているのだろう。時折、サササ、ザザザーと自然の息吹を奏でる。照りつける太陽の光を竹群がさえぎり、司令部の影の部分は涼しさを感じる。
ボジョー司令官専用の建物は小さな小屋一つ。ベッドが1つはいるくらいの大きさ。ひとが一人、寝っ転がれば窮屈な空間だ。これが、ビルマ軍が恐れる、カレン民族解放戦線(KNLA)第5旅団の司令官が寝起きしている場所であった。
スゴーカレンの父とポーカレンの母を持つボジョーには、兄2人、姉4人、弟2人がいる。子だくさんのカレン人の中でも大家族の方である。
「せっかく来てくれたのにすまないね。私は明日の朝早く、山奥へと出かけなければならないんだ。帰りは年明けの2日になると思う。もし君さえ良ければ一緒に来てもいいんだが」
タダダー村から歩いて40分くらいの場所にビルマ軍が前線基地を築いている。この第5旅団の司令部に攻撃をしかけてこないのだろうか。
「1年ほど前に大きな攻撃があったが、それからはさっぱりだなあ。もし、攻撃しても我々はすぐにゲリラ戦に転じるから心配ないよ。ビルマ軍の補給路を断てばいいことだから。我々は弾の最後の1つまで闘い続けるつもりだよ」
サルウィン河からこの司令部まで道案内をしてくれたディゲが説明してくれた。
「こっちからは滅多なことで攻撃をしかけませんよ。そうしたら本当に『戦争』になってしまうからね。それに、ビルマ兵士にしても、わざわざこんな山の中で命を落としたくないでしょう。貧しくて、喰えずに兵士になったビルマ人も、何のために闘っているのかよく分かっていない。彼らの戦意は本当に低いよ」
できれば、銃火を交えたくないのは、前線の兵士の偽らざる心境かもしれない。
私はボジョー司令官に、カレンの現状について、率直に聞いた。
「カレン人のこと、カレンの今の戦闘のことを考えると、実は夜も眠ることができないだ。昨日も2時間しか眠ることができなかった。考え込むと、気が狂わんばかりになる。いったいどうしたらいいのか・・・。」
独り言のように、或いは、私に問いかけるように話す。彼は、カレン人として、また兵士として16年間、どんなときに幸せを感じたのだろうか。
「never never really happy(幸せなんて、いまだかつて感じたことなかったよ)」
単語を一言ずつ句切りながら、絞り出すような口調で続けた。
「でも、兵士としてKNLAに参加したとき、私は誓ったんだ。『兵士となったからには明日死ぬかも知れない運命だ。しかし、カレンのために最後まで闘うんだ』と。今、我々が今、武器を持つのを止めると、我々は確実にビルマ軍に滅ぼされてしまう」
私は、どう続けていいのか分からなかった。私が中米エルサルバドルで1992年、停戦時に目の当たりにした経験を語った。
山にこもっていたエルサルバドルのゲリラたちは、胸を張って山を下りてきたんだ。そんな彼らを市民たちは熱狂的に迎えた。そんなこともあったんだよ-
遙か遠い中米ゲリラの話、私が見たKNUの現状、さらに過去訪れたビルマの町の様子を夜遅くまで話した。ボジョーは熱心に私の話に聞き入ってくれた。
その夜、ディゲが、密かに私に告げた。
「明日からの行軍はかなりきつくなるから、こない方がいいです。できれば、この場所でボジョーを待っていて欲しい」
ボジョーと一緒にいる時間は限られている。そう思うと、できるだけ話をしてたかった。だが、ディゲがそう話すには何か理由があるのだろう。ボジョーへの同行は諦めた。
翌朝、目が覚めると、ボ・ジョーは既に司令部を後にしていた。部下から前線の状況報告を聞くボジョー。