ボジョーは今回、60名の兵士を率いてビルマ軍の基地に奇襲攻撃をしかけた。しかしカレン軍の持っていった4つのRPG砲のうち3つが正常に作動しなかった。たった1つの砲でビルマ軍の60mm砲と対峙しなければならなかった。最後は手榴弾を抱えてビルマ兵に10mの距離まで接近する戦法もとった。しかし、火力の差で敗退。
十分な武器さえあれば勝てた戦闘だった、という。KNUの総司令部に武器の補給をかけ合ったとしても、彼の要求は叶えられない。KNUは財政的に逼迫しているのだ。敗色が濃いKNU全体に漂う戦闘状況。彼はそれが分かっている。
カレン軍第5旅団の惨敗だった。カレン側に死者5名、負傷者13名の惨敗だった。ゲリラ戦としては大敗である。やはり、ボジョーついて今回の戦闘に行かなくて良かった。ジャングル戦だっただろうし、今思っても足手まといになっていたのは明白だ。一緒に戻ってきた若いカレン兵も、心なしか疲労の色が顔に浮かんでいる。一緒に行動を共にしていたはずのディゲは、戦闘で足を痛め、途中の村で休んでいるという。さらに、その日の午後、ボジョー司令官は倒れた。
(写真:兵站基地から前線に指令を飛ばすボジョー。)
翌日、ボジョーが私に尋ねた。
「そういえば、君も1963年だったね」
「そう、あなたと同じ3月生まれです」
「3月か」
「そう、あなたが6日だけお兄さんです」
彼の目が優しく笑った。30年前、ほとんど同じ時期にこの世に生を受けたボジョーと私。歴史には「もし」という言葉は許されない。
「もし、私が日本でなくカレンに生まれていたら」
そう思うのは、私のおごりであり、傍観者の立場を明瞭にあらわしているにすぎない。彼はそんな私の思いを見透かすかのように聞いてきた。
「もし、君が私の立場ならどう行動する」
(「本当は闘いたくない」)司令官としては部下の前では決して口にできないことを私に訴えていた。そんな彼に、私は答える言葉がなかった。
しかし、かれは自分の力を確信するかのように続けた。
「人間は何かを成し遂げたいと思ったら、『いいときもある。悪いときもある』、そのことを覚悟しておくべきだ。人は死ぬまで学ぶことができるから、諦めてはだめなんだ」 「戦いが終われば、農夫にでもなりたい。でも、でも、いろんな事を知りたいから、機会があればもっと勉強したいしなあ」
彼は話の中で、ふと、そんなことを漏らした。
「カレン民族の為」という大義より、村人を守りたい。普通の暮らしがしたいと銃を持ったボジョー。しかし、兵士になったのも、司令官の役割を背負ったのも、彼は、自ら選んだ道でもある。ボジョーは、敢えてそういうそういう選択肢をとった。そして今、自分の覚悟とカレンの将来を常に口にする一人の司令官となった。そんな彼の人間性をもっともっと知りたいと思う。
翌日、再会の約束をして、ボジョーと別れた。タダダー村を後にして2日目、パラダ村という名の小さな村にたどり着いた。チデトゥさん(53歳)さんという女性の家に泊めてもらった。
彼女は、祖母の代からこの村に住んでいる。野菜を売るためタイ国境に出かけることも多く、タイ語、ビルマ語、カレン語を自由に話す。自分のお母さん、おばあさんと同じように、いつまでもこの村で平穏に暮らしていきたいと言う。
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