私はなぜ北朝鮮を脱出したのか (6)
北朝鮮と他の旧社会主義国家とでは、90年代の(社会秩序の)崩壊が大きく異なる現れ方をした。
他の社会主義国の体制崩壊が、未来指向的な社会再編の積極的な機会になったのに比べ、北朝鮮の場合は、なんとか(体制)崩壊を阻止するとしながらも、過去のやり方に戻るというわけでもなく、消極的な取り繕いを計画する間に、権力分割が表面化し、社会の秩序が乱れるという連鎖的な崩壊現象が発生した。不正腐敗(をしようとする輩)は、この機会を積極的に利用し既得権益をあらたな構成してしまった。
権力の再統合と社会秩序の回復ためには、外圧を導き入れるか、あるいは世代交代的な(体制の)自然死以外に、どんな処方も無効なはずであった。これに関しては後で事例を挙げながら説明したい。ただ、連鎖的な崩壊過程を起こした社会習慣(ハビトゥス)と、否定的な社会慣行、それに対する社会統制の欠如については、ここで簡単に指摘しておく必要があると思う。
第一に、最初の(秩序の)崩壊は、絶対的に確立運営されていた<唯一首領制>が無意味化してしまったことだった。以下の第3でも少し触れるが、首領の後継とは実際には不可能であった。
したがって、首領制が無意味になったというのは、生存する(首領)金日成主席の信任、面会、教示を受けてこそ、個人や機関の運命が決定されていた、徹底した唯神的な「人治構造」が、長期間にわたって構築運営されていたのに総破産したことを意味する。
首領の死亡という現実に起こりうる事態に対して、国民の精神的、および国家の制度的対策は、立てることすらとうてい不可能、ゼロの状態であった。
しかしながら、それでも実際に(金日成)首領は死亡した。
その時に国民は、唯一の首領による運命決定制度を、一瞬にして失ってしまったのだ。
その中でも、もっとも敏感に反応したのは、核心幹部階層であった。
食糧配給制をはじめ、末端の行政制度はまるで大地震が起きたかのように、不可逆的な完全な破壊、無秩序に陥ってしまった。
第2に、この首領制の無意味化は即ち国民の運命決定に関する社会的慣行の終末を意味した。
そのために、全社会構成員が生死運命の混乱を引き起こすことになった。
人びとは共通して、人格を喪失した社会性のない二つのグループに分化していった。それは、法を犯す者とコチェビの大群であった。
絶対的首領の死亡は、大衆から「社会の意味」すらも剥奪したのである。
人間は略奪をするか、その対象になるか、運命の宣告と社会の関係は苛酷で残忍なものになった。
第3。もちろん大衆に新しい政権に対する期待が全くなかったわけではなかった。
上述したように、国民が知っている首領を後継しようとするなら、その後継者は何時も人民の中でその存在を示さなければならない。
地位は世襲可能だが、権威は世襲不可能であった。
首領であっても、自らの人民的カリスマを遺産として残すことはできなかったのだ。
金正日国防委員長は、北朝鮮固有の選挙制度によって選ばれはしたが、金日成主席とは正反対に、高い垣根の中にいて、人民の知らない高位幹部たちの独占的存在、人民からは"見えない、聞こえない"の幻のような存在である。
それでも人民はこのときの選挙(1998年)のとき、それまずっと宣伝してきた"世界最強"の国防にではなく、破綻した人民経済に責任もってくれることを、首領の後継者に強く期待した。
実際、このような絶好の政治的なムードこそが、人民的カリスマを獲得できるゴールデン・チャンスであった。
まさに40年前、金日成主席は朝鮮戦争休戦後の経済破壊状態を、内閣首相として復旧して、他ならぬその人民的カリスマを獲得したことは、北朝鮮人民がよく知っているのだ。その最後の政治的期待が捨てられたことで、国民と現場の幹部たちは裏切られたという気持ちにすらなったのだ。
国民の要望への背信によって、リーダーシップへの支持と正当性を喪失してしまった事は、政治の分野への(秩序)崩壊の拡大、特に権力の分割を表面化させた。
国民は、「現指導部は言葉では首領制に固執するが、行動上では保守も改革もない対応無策」と断定している。
その具体象は後で見ることにする。 (2006/03/24)
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