「大日本帝国陸軍看護婦の老後」
帰宅すると葉書が来ている。台湾国内のスタンプ、黄玉緞という差出人を何とか確認するが、判読はすぐには困難である。

黄玉緞さんは、大正九年生まれの高齢ながら、いつも小さな字の達筆で、葉書一枚いっぱいにお便りをいただく方である。この乱れた字は、どうしたことか。解読していくと、昨年暮れに倒れて救急車で運ばれたこと、ICUに四日入って命をとりとめたこと、そしていまは老人ホームにいることが書いてある。最後は「再会できれば幸甚」という言葉。

黄さんは、元大日本帝国陸軍看護婦である。昭和十七年十一月に出征し、マニラの第十二陸軍病院に配属された。一千名以上の看護婦が勤務する「南方」最大の病院だった。昭和十九年九月に米軍の攻略が始まり、実に一か年に及ぶジャングルの逃避行を体験する。

060303-14.jpg爆弾の破片で婦長がふっとんだ。負傷兵を載せた担架を手に泥濘の道を歩いた。吊橋を前に患者を泣く泣く捨てて渡った。食糧も薬品も絶え、彷徨する病院は餓鬼の集団となった。米軍に囲まれ降伏したのは、昭和二十年八月二十一日。終戦の詔勅も知らなかった。

台湾に奇跡の生還をはたし、戦後は台北市内の公立病院に定年まで勤め続ける。あれ以来、日本政府からは何の音沙汰もない。

最近になって戦地での給与がようやく支払われたが、それはまさにスズメの涙だった。自分の青春はなんだったのか、どうして日本は我々を見捨ててしまったのか、と問い詰める毎日が続く。

私はそうした黄さんと十数年前に台北で知り合ったが、彼女ももう八六歳を超える歳になった。
戦後、国民党政権下、日本の看護婦として戦ったことなど大きな声で言えることではない。さらに台湾では、看護婦として連れて行かれて慰安婦にされたなどという虚言がまかりとおり、白い目でみられることすらあった。

実際は、日本の兵隊は看護婦を大切にしたし、また兵隊との色恋沙汰は厳禁だった。
書かれた台北県の住所を頼りに訪ねていくと、確かに「○○養護中心」という看板が出ている。黄玉緞さんは三階の四人部屋。「閻魔様に追い返されたよ」というほど頭と口は元気そうだったが、足はほとんど駄目らしく、トイレにも行きにくいという。
次のページへ ...

★新着記事