私はなぜ北朝鮮を脱出したのか (7)
職場はあるが仕事が無い。職業はあるが収入がない。
こんな有様なのに加えて住居まで失った私は、慌てる一方で、自分の家族全員をその夏の間中に大急ぎで、あちこちの親戚に無我夢中で頼み込んで、何とかやっと預けた。一息つくと95年もすでに秋にさしかかっていた。
さて、いざ一人となると、明日から私自身のこの身は、いったいどうしたらいいのか、お先真っ暗だった。
寝る場所のことならば、とにかくも"地に横たわって石を枕にすれば空が屋根になる"というのもまったくのデタラメではないが、自分で自分の口に食べ物を運ばねばならない現実については、頭の中が真っ白になった。
読者の方からは、筆者がいったい何をたわけたことを言っているのかと叱られるかもしれないが、当時は、そのような状況だったのだ。
完全配給型の計画経済社会で数十年間暮らして適応してしまえば、そこでの洗脳が、価値観はもちろん道徳や生活方式にまですみずみ及んで、人格が形成されてしまうのだ。
(北朝鮮では)配給品も商品も、品質をよく見て評価し、気に入るものを選びとるという習性がまったく存在しないのである(そう説明すれば、少しはご理解いただけるかも知れない)。
男が家計を見たり、炊事をすすんでしたりすることは、男からも女からも容認されない、(まるで)人格喪失したかのような「恥」であった。
そのような制度で習慣を守ってきた男が、突然、働き口も,収入も,家庭も,住まいもすべて失って、自分で食べ物を調達しなければならないという、無慈悲な立場に容赦なく立たされたのである。
共和国以前の日本植民地時代でもなく、収入のある働き口は、国以外の誰からも与えられない状況で、稼ぎは皆無で一銭の金もない私は、人々の目を避けながら、もしかするとと思って、00市を横切る河川の堤防に出て行った。
食べられる草や魚でも得られるかも知れないと期待したからだった。
思ったとおり、結構な数の人々が膝ほどの深さの川の水に入って、何かを機械的に熱心にすくいあげていた。それが何であるか、私にはまったくわからなかった。
人間が採集で生きたという話は、農耕の発見以前の人類歴史の記録でしか知らない私は、いくら凝視しても、砂と小石、そして水以外は見えなかった。
秋のせいか、堤防の草は木の筋ように固かった。
草をつまんで、そっと口に入れて噛んでみた。だが、いまだに知られていない、新種の食用植物発見の奇跡は起こらなかった。
この草を食べて生きられる牛馬が羨ましい気がした。私は川の縁を離れた。
この時ほどに、人間は食べなければ生きられない、ということが嫌になったことはない。