私はなぜ北朝鮮を脱出したのか(9)
足もとは、汚水と泥土が踏みにじられたドロドロの道で、他に足の踏み場もなくて履物の中の自分の足はすでにぬるぬるの状態であった。
風呂に入れない人々の臭いと、野菜が腐った臭い、魚の臭い、家畜の臭い、肉売り場からの血なまぐさい臭いが、混ざりあって漂い息がつまる。その中でも断然強く鼻と目を刺激するのは人の糞尿の臭いであった。
○○ジャンマダン(闇市場)は直径が約3百メ-トルもある。常時数万名の群衆が密集する場所であり、物流の中心の場所だ。そこに、その頃(トイレなどの)衛生施設は一つもなかった。
ただあるのは、周囲を囲んだだけの深さ10センチ足らずの、流れることもない排水溝がすべてだった。
用便に関する道徳をすべて投げ出した購買者たちはさておき、販売者兼警備員でもある商売人たちは、昼間の12時間、ずっと自分の商品に縛られて一歩も現場を離れることができない。
言うまでもなく、飲食する商売人には必ず用便がある。
しかたなく女性も大勢の前で、スカートや風呂敷で隠して、その場で用をたし、その排せつ物が人々が行き交う道に垂れ流される、そんな有様であった。
そんな様子を観察しながらいろいろ考えたため、私の歩みはついつい遅くなった。
日が暮れる頃、ようやく時計を売って、次は少女に靴を買って履かせようとしたところ、突然近くで騒ぎが起きた。
本能的な防衛意識で少女をかばい、騒ぎの方を見ると、ソバを売っていた母娘をコチェビの一群が襲ったのだった。
電灯もなく安全でないジャンマダンは、日没と同時に閉場し商人らはすべて帰ってしまう。
この日没のころ、丸一日物乞いがうまくいかなかったコチェビらは極度の不安におちいり、一番弱い獲物を探して群がり攻撃するのだ。
豆腐やトウモロコシの麺が容器ごとひっくり返されて、あっという間にだめになった。半分以上は汚れた地面に散らかった。
がっしりした突撃隊格のコチェビが真黒い手でソバの器を奪い取り、そのまま胸の懐に注ぎ込んで逃げていった。
彼を追い駆ける女の店主が立ち上がって追いかけ出すと、大人、子供、また片脚を失っていたり、栄養失調にかかっていたりと、様々な姿のコチェビの群れが、残された幼い娘が守る商売の品に、略奪するために飛びついた。
その騒ぎの中で、ソバ商売の幼い娘が上げる悲鳴が私の耳に痛く刺し込んだ。
コチェビらは汚い地面に落ちて散らばったソバの麺や豆腐のかけらに群がり、競い合って食べる。
まるで野良犬のように、われ先に食べようと喧嘩をしながらすっかり食べてしまう。うつわまでなめ回して食べてしまうのだ。
"お父さん。"
私の後に隠れていた少女の悲しいつぶやきの声に、目前で繰り広げられた、まるで人の革を被った野良犬の群れによる略奪を見たようで茫然自失だった私は現実に戻った。
(お父さんだなんて?まさか...)
注意深く見ると周辺の人々から足げにされで、鼻血を流す一人の大人コチェビが私の目を引いた。
彼は飛び散った最後の一切れの白菜でも自分の口に入れるようと必死になって、痛みを我慢しその場で頑張るグループにいた。
野良犬でもこういう状況では餌を捨てて逃げ出すのではないか。"食って死ねるならば怨念はない"という現代朝鮮語を証明するかのように食べ物に飛びついていたのは、他でもないこの少女の父つまり私の大学の同僚であった。