もう一つ、情報の少ないこの国でもこの冒険に希望の価値を見だす根拠もあった。
それは、90年代初に平壌で見た米国のドキュメンタリー"米映画の百年"だった。
その中で、1930年代初めにあった大恐慌期に、他ならぬ映画界は歴史上の大全盛期を迎えていたという事実を知った。
確かに朝鮮の現実でいうと、これは即座に受け入れることは難しい。
だが、(困難期に文化的需要が増すという)この一見矛盾しているようなことは、異国の現象だが、人間の本性的なものだと説明するしかなく、、民族に関係ない普遍的特性ではないかと考える機会になった。
朝鮮社会が体験している社会的及び経済的な大破綻にしても、決して無意味ではないはずでだ、という私の期待も自然なことなのだろう。
惨状をさらしている北朝鮮の現実が、一方で巨大な反作用のエネルギーをどこかに産んでいるはすだ。その存在に対する知的衝動が、私の中で沸き起こり始めた。
95年の秋のことだった。 (2006/05/09)
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