<レバノン戦争とイラン ~イスラムの大義に揺れる大国~>
その3 イランを突き動かすもの
【バスィージのテント小屋で。バスィージ青年と筆者。募金をしたら、コーランの節の書かれた小さなステッカーをもらった】
イラン政府による保守派学生への懐柔策にもかかわらず、イスラムの大儀に忠実な学生義勇兵の第一陣がいよいよレバノンへと旅立ったのは、7月も終わりに近づいた頃だった。
しかし、彼らはトルコとの国境でイラン側から出国を阻まれ、二日間の座り込み抗議の末、ようやく出国スタンプを押されたが、今度はトルコ側に入国を拒まれてしまった。彼らはヒズボラの旗をはためかせ、カーキ色の軍服に目出し帽といういでたちだったため、トルコ側から「普通の旅行者の格好をしてきてください」と言われたという。
それからわずか数日後、ヒズボラからイランの若者に宛てて、次のようなメッセージが届いた。
『目下のところ前線は限られており、増援部隊の必要性はありません。我々ヒズボラはまだ戦力の10パーセントしか使用しておらず、必要ならまず自身の全部隊を召集し、その後、レバノン市民に支援を求める予定です。日々、イラン国民の皆様からは、レバノンでの支援、参加方法をお問い合わせ頂き、感謝しています(以下略)』
http://www.baztab.com/news/44468.php
その後、彼らが無事トルコに入国を果たしたというニュースも、第二陣が出発したというニュースも聞かないまま、8月14日の停戦合意を迎えた。この日、テヘランでは、ヒズボラの勝利を祝して、夜空に花火が打ち上げられ、あちこちで通行人にお菓子やジュースが振る舞われた。そして翌日にはもう、町中からバスィージのテント小屋が姿を消していた。
イランは政教一致の宗教国家である。政府は保守的で、その政府を支える保守層の中でも最も過激なグループとして、バスィージといった民兵組織が存在する。と思っていたが、このレバノン戦争の間、彼らさえ手を焼く保守層があることを知った。それはむしろ、「層」という言葉で表現するより、若者の純粋さであり熱狂そのものである。
この国の総人口の55パーセントは24歳未満である。この若さというエネルギーは、27年前のイスラム革命を成就させ、1997年の大統領選挙では改革派のハタミ政権を生み出し、1999年には暴力的な反体制デモをイラン全土に吹き荒れさせ、そうかと思えば昨年、保守強硬派と呼ばれるアフマディネジャードを大統領の座に据えた。
今回、レバノン戦争へ志願した若者は、実際のところごく少数派に過ぎない。しかし、この小さな火種が、場合によってはどう転ぶか分からないという恐ろしさを、イラン政府は良く知っていたのかもしれない。
1ケ月あまりに及んだレバノン戦争は、数日後にはもうイランからその痕跡を消していた。
しかし、アフガニスタンではタリバン残党による米軍への攻撃が再燃し、イラクでは混迷から回復する道筋さえ見えず、パレスチナでは相変わらずイスラエルによる圧政が続いている。自国の安全保障とイスラムの大義というジレンマは、これからも中東の大国を悩まし続けてゆくだろう。(おわり)