<核施設の街・ナタンズへの旅>
その2 再びナタンズへ
翌日の各紙の朝刊は、前日のナタンズ核施設でのアフマディネジャード大統領の演説の写真を1面トップで飾った。私はそれらの新聞に目を通しながら、再びバスに揺られて南を目指していた。核施設周辺住民の話をもっと聞いてみたいと思ったのだ。
保守系、改革系、どの新聞も、一面の見出しは『イランは核エネルギーの産業化段階に入った』、あるいは『3000機の遠心分離機に6フッ化水素を注入』でほぼ統一され、紙面は祝賀ムード一色である。
昨年12月の専門化会議議員選挙と地方評議会選挙で大統領派が完敗し、改革派が大幅に議席を伸ばした際、改革派系各紙はここぞとばかりにアフマディネジャード政権の性急な核政策を非難し、アメリカに付け入る隙を与えて国を危機に陥れるべきではないとする論評を載せたものだが、今朝の朝刊はすっかり保守系各紙と足並みを揃えている。
私は、昨夜テレビで見た、アーガーザーデ原子力庁長官の談話を思い出す。
「我が国の若い研究者たちは自らの人生をイランの核開発に捧げてきた。核施設に泊り込んで、毎日16、17時間も働いた。海外の企業も研究者も我々のそばにはいなかった―」。
これは言ってみれば、イラン人にとって、現在進行形の『プロジェクトX』なのだ、とそのとき私は思った。昨日の式典ではアフマディネジャード大統領も涙ぐんでいたという。改革派各紙の論陣までもが思わず愛国主義に流されてしまうのも無理もない気がした。
前日と同様、カーシャーンでバスを降り、ナタンズ市行きの乗り合いタクシーに乗り換える。核施設の前を通過する際、なにげなく前日の式典と記念日について運転手に話題を振ってみる。
「そりゃ嬉しいよ。祝うべきことさ。アメリカや西側にあれだけ圧力を受けながら成し遂げたことなんだから!」
「アメリカ人やイスラエル人のことをどう思いますか?」
「彼らの政府のやり方は気に食わないけど、べつにアメリカ人やイスラエル人そのものに対し、悪意はないよ。ユダヤ人はもともとイラン人と仲が良かったんだ。アケメネス朝だったかな、王妃はユダヤ人だったし、イスラエルのゴッズ寺院もペルシャが建ててやったんだ。あの時代はイスラムもユダヤもなかったからね。でも今だって、イスラエルの前の首相はイランのヤズド出身なんだよ。
イラクの前アメリカ大使もハリーザーデって名前だったから、あれもイラン系だろう。それより日本はどうなんだよ。原爆まで落とされて、それでもアメリカとずいぶん仲良くやってるよな。アメリカ人に対する憎しみはないのか?」
イランでは、アメリカやイスラエル政府を罵る言葉は至るところで耳にするが、国民そのものに対する感情を尋ねると、この運転手のように至って冷静な答えが返ってくる。イランはまだアメリカともイスラエルとも戦争をしておらず、アメリカやイスラエル兵の手で無残に同胞を殺されるという経験がない。それが、イラン人にこうした理性を残している所以かもしれない。
一方で、20万人近い犠牲を伴ったイラクとの8年戦争を経て、イラン人はいまだにイラクの国民に対する嫌悪感を捨て切れず、米軍占領下のイラクの惨状を見ても、概して冷淡である。同じように、ひとたびアメリカによる空爆が始まれば、イラン人のこうした理性も瞬く間に消し飛んでしまうに違いない。
タクシーは荒野の中の一本道を恐ろしいスピードで走り続ける。スピードメーターは壊れていて、時速何キロなのかは分からない。右手に見えていたキャルキャス山脈の山並みが険しさを増し、鋭い岩盤の頂に残雪がところどころ見られるようになると、左手前方に、緑に包まれたナタンズ市が見えてきた。
ナタンズ市は人口1万5千人ほどの、ありふれた地方都市だ。キャルキャス山中には桃源郷のような美しい山村が散らばり、そうした周辺住民も含めれば、3万人近い人々がこの一帯に暮らしている。ナタンズ核施設は、実際にはこの町より若干カーシャーン寄りにあり、施設で働く労働者もほとんどカーシャーンの人だと聞く。しかし、ひとたびアメリカによる核施設への攻撃が始まれば、まっさきに放射能汚染で壊滅するのは、風向きから考えて、施設の南部に位置するこのナタンズ市周辺地域である。
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