【 サマワの自衛隊部隊 (2004年2月/撮影・野中章弘)】
自衛隊のイラク派遣に反対する市民団体やジャーナリスト、政治家たちの動向を調査した自衛隊の内部文書が暴露された。
「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対運動」などの文書は、情報保全隊が作成し、イラク派遣にからむ集会やデモ、ビラまき、講演会について、主催者の分類(共産党系、労働組合系、社民系など)から、日時、規模、発言内容にいたるまで詳細な報告を行っている。
私についての記述も二カ所で見つけた。茨城県の市民団体に「メディアは戦争をどう伝えたか」とのテーマで講師に招かれた集会については、主催者は「NL」(新左翼系の意味らしい)と区分され、「動員数」は二十二名と正確に記述されていた。
どうやら隊員をもぐりこませていたようだ。
また私のイラク取材についても、動向をチェックしていた。
これを「調査研究」(防衛省の守屋武昌事務次官)などと強弁するのはごまかしだ。目的は国民の「監視」である。自衛隊に批判的な国民を危険視する発想は、公安警察や旧日本軍の憲兵隊と同質のものだ。
そもそもなぜ国民が自衛隊に監視されねばならないのか。本来、監視の対象となるのは、国民ではなく、自衛隊の方である。「軍」が暴走せぬよう、きちんと監視、コントロールするのが文民統制なのだが、その機能がいま働いていない。
このような自衛隊のあり方に私は強い危惧を抱いている。自衛隊は「国民を守る」ために存在すると説明されてきた。
国家より、国民の方が優位にある。日本国憲法における主権在民とはそういう意味である。
いまの自衛隊からは、その意識がすっぽり抜け落ちているのではないか。組織防衛に走った国民不在の「軍事組織」はきわめて危うい。
また「情報収集は当然」と開き直る塩崎恭久官房長官や久間章生防衛相には、自衛隊に対する懸念を晴らそうという姿勢はまったく希薄で、国民軽視もはなはだしい。
彼らは過去の歴史から何も学ぼうとしない。
政治の質はここまで劣化してしまったのか。
私は二十数年間、アジア、アフリカの紛争地などを取材してきた。
その体験を通じて学んだことは、「軍隊はその国の為政者、権力者を守るために利用される」という事実だ。
長く独裁政権の続いたタイ、フィリピン、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)などの東南アジア諸国をはじめ、光州事件の韓国、天安門事件の中国なども、軍隊は国民を守るためではなく、国民を弾圧する「暴力装置」として使われた。
軍隊の銃口は「敵」ではなく、まず自国民に向けられた。
それらの国々を歩きながら、文民統制の効かない軍隊の酷(ひど)さと非情さを幾度も目撃してきた。
「いや、日本はちがう」
という意見もあるかもしれない。
しかし、いまの自衛隊や与党の政治家たちの言動を見る限り、とても「国民とともにある」とは思えない。
軍事機密という名目の下、自衛隊の不透明感は増すばかりで、門戸を閉じこそすれ、国民に開いた組織作りに取り組む気配はない。
自衛隊への批判的な行動を「反自衛隊活動」と分類して、敵対視する自衛隊の「体質と意思」はすでに国民から離れ、ひとり歩きを始めようとしている。
これは「戦時国家体制」への一里塚と言うべき深刻な事態である。