爆音のない静かな空を
~厚木基地周辺住民、半世紀の訴え~ <第6回>
「息子の血が染み込んだ土地を・・・」
その当時、近所には18世帯が住み、文化自治会という町内会をつくっていた。首都圏のベッドタウンとして宅地分譲開発が始まった頃で、みんな前年からこの年にかけて引っ越してきたばかりの「新住民」である。ほとんどが給与生活者の世帯だった。
降って湧いた凄まじい爆音にショックを受けて、お互い「どうする」「どうしよう」と言い交わした。「こうなったら土地を売ってよそに行こう」と不動産屋に相談したが、「そんなうるさい所は買っても売れるわけがない」と断られた。
しかし、なんとかしなければならない。まだ関係性の薄い「新住民」どうしだったが、爆音という共通の悩みを抱え、話し合った結果、「みんなで力を合わせなければどうしようもない。政府が米軍機を飛ばさせているんだから、政府に補償金をもらって移転しよう。そのために働きかけをしよう」と合意した。
1960年7月16日、18世帯からなる文化自治会は、爆音防止と集団移転の補償措置を望む陳情書と被害実態調書を、大和市長と県知事と防衛調達庁(後の防衛施設庁)横浜調達局に提出した。
さらに7月23日に、同じように爆音に悩まされている近隣の5つの自治会に呼びかけると、365世帯が集まった。そこで、住民団体として厚木基地爆音防止有償疎開期成同盟を結成した。
この結成総会では、「住民は日夜激烈を極める飛行爆音に呻吟している。発着陸コースの中心における爆音は人間生理の堪え得る限界を超え、居住者は常に生命、財産に対する脅威にさらされ、生存権を脅かされている」と訴える決議がなされた。
「私たち文化自治会の者は補償金をもらってここから逃げ出したいと思っていました。でも、たくさんの人が集まってきて話し合うと、『ここにはお墓もあれば、親戚もいる。職場も近い。だから逃げ出すわけにはいかない』といった意見の人たちも増えてきたんです。それで、有償疎開要求にも取り組むが、『爆音を止めることが第一だ』となっていきました」
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