会場には憲兵もいて反対できる空気ではなく、土地所有者らは命じられるままに承諾の判を押したという。買収は三次に及び、全戸移転を余儀なくされた集落もある。

1942年、飛行機整備兵の教育をする相模野海軍航空隊が開隊した。翌年には、飛行部隊を持つ厚木海軍航空隊も開隊し、空母艦載機の訓練が始まる。厚木にあるわけでもないのに厚木飛行場と名づけたのは、基地の所在地を欺くため軍事的理由から、奈良の大和や戦艦大和と混同しないため、近隣で古くから栄えていた厚木の名が全国的に知られていたから、など諸説ある。

1944年、戦局が日本側に不利になると、米軍のB-29爆撃機や空母艦載機による空襲に備えて、首都防衛のための迎撃戦闘機部隊が配置された。

【厚木基地内にあるマッカーサーの銅像】
【厚木基地内にあるマッカーサーの銅像】

戦闘機製造工場である高座〔こうざ〕海軍工廠も、すぐ近くに1942年末から建設されており、44年から生産を開始した。そこでは、地元青年を中心とする工員、勤労動員の女学生、募集動員された台湾出身の少年工が働いた。

しかし、1950年6月に朝鮮戦争が始まると、米海軍第7 艦隊空母艦載機の修理・補給・訓練・偵察用の航空基地になった。米軍の東アジアにおける戦略上重要な拠点のひとつとして位置づけられた。

1951年9月、サンフランシスコ講和会議で対日平和条約が調印され、日本の独立回復が決まる。と同時に、日米安保条約も結ばれ、米軍の駐留と基地の継続使用が定められた。 (文中敬称略)

つづく
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