1964年はベトナム戦争が拡大した年で、翌年には北ベトナムへの空爆(北爆)も始まる。
爆撃作戦を遂行する米海軍第7 艦隊の空母は、補給や修理のため横須賀の米海軍基地に入港した。F-4Cファントム戦闘機など艦載機は厚木基地に飛来して修理・整備を受け、空母着艦訓練の飛行を繰り返した。空母入港時には航空機騒音が一層激しくなった。
さらに1969年4月、厚木基地配備のEC-121電子偵察機が北朝鮮領空を侵犯(米側は否定)して撃墜される。すでに60年5月には、厚木基地配備のスパイ偵察機U-2がソ連上空で撃墜され、当時のフルシチョフソ連首相は「U2に基地を提供している国に報復攻撃も辞さない」と警告していた。
厚木基地は米ソ冷戦の前線に位置し、ベトナム戦争の出撃拠点にもなった。周辺住民はいやおうなく戦争の影と向き合わされ、戦争に巻き込まれないかと不安をかき立てられる。
「当時、爆音反対の声をあげ、米軍機の飛行に抗議した住民のほとんどは、戦前生まれで、戦場に行ってなくても空襲や勤労動員。学童疎開など戦争体験を持っていました。戦争の悲惨さを身をもって知っていたわけです。だから、いたたまれないような戦争への危惧と憤り、基地のすぐそばに住む不安を覚えたのです。爆音の被害や墜落事故の危険をなくすためにも、やはり基地そのものをなくさなければという気持ちが強まりました」
と鈴木が説明するように、厚木爆同は1968年から69年にかけて、基地撤去の方針を明確にした。爆音防止の陳情や請願だけでは政府に本腰を入れて取り組ませることができないため、飛行阻止の実力行使も含む抗議行動が必要だとの決定もした。
(文中敬称略)
つづく
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