【鈴木保さん】
【鈴木保さん】

1970年から厚木爆同の委員長を務める鈴木保(81歳)は、そう当時を振り返る。鈴木は1925(大正14)年、東京の世田谷区に生まれた。父親は警察署長だった。36(昭和11)年、陸軍皇道派青年将校が起こした2・26事件の日、反乱部隊の1 小隊の指揮官の家が近所にあり、雪の降るなか憲兵隊が取り囲んでいたのを、尋常高等小学校5年生だった鈴木は鮮明に覚えているという。

東京市立高輪工業学校機械科を繰り上げ卒業したのが1942(昭和17)年で、太平洋戦争の真っ最中だった。「産業報国」と「外地雄飛」の精神を説く教師の勧めで、当時の満州国(中国東北部)奉天(現瀋陽)にあった国策会社、満州飛行機製造株式会社に入り、陸軍爆撃機の製造に従事した。

1944年の夏に徴兵検査を受けるため帰郷し、満州にもどろうとしたとき、下関と釜山〔プサン〕の間が米軍による機雷封鎖のため連絡船が通わず、仕方なく東京で軍用機の爆弾を造る会社に入った。

その会社は敗戦とともにやめ、いくつかの職を経て1951年に相模鉄道に入社し、横浜にある車輛工場で修理・整備の仕事についた。大和市上草柳に家を建てたのは、1955年。厚木爆同に加わったのは62年である。

騒音問題の深刻化と厚木爆同を始め住民からの働きかけもあり、自治体も爆音防止に動きだした。1961年に大和市議会は基地対策特別委員会を設置し、翌年には大和市基地対策協議会もできた。

この協議会は市長、市議会議長、基地対策特別委員会委員長、市内の自治会連絡協議会や商工・農業・労働・医療・婦人・教育など各団体の代表からなり、住民運動団体として厚木爆同からも代表が参加した。

さらに1963年、大和市企画渉外課に基地問題担当の渉外係(現基地対策課)が置かれた。その後、綾瀬町(現綾瀬市)でも同じように基地対策協議会や基地対策課が設置されている。
(文中敬称略)
つづく
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