このような躊躇〔ためら〕いはしかし、転戦するうちに消えていく。当時、日本軍は都市とその間を結ぶ鉄道つまり点と線の近くを支配しているだけで、広大な農村地帯には中国共産党軍である八路軍が根を張り、活発なゲリラ戦を続けていた。日本軍は「作戦討伐」に出ると、「敵性部落」と見なした村々を蹂躪〔じゅうりん〕した。
「逃げる者は必ず殺す。略奪する。婦女は犯す。家を焼く。こうして兵隊は戦争することに慣れていくんです。しかも正義の戦〔いくさ〕だと教えられ、信じ込んでいました。中国人を見下してもいました」
浜崎は伍長に昇進し、1943年11月に復員した。そして翌年2月、召集され、国内で陸軍飛行場の警備などにあたった。そして戦後になり、軍隊時代は遠ざかっていた鉗子作りの職を再開する。
「少しずつ落ち着いて暮らせるようになり、新聞やラジオで東京裁判のことなども知って、軍と政府が国民をだまして戦争に駆り立てていたことがわかりました。日本も空襲で焼け野原になり、私も黒焦げの焼死体をたくさん見ています。戦争で一番犠牲になるのは年寄り、女の人、子どもですね。すると、自分たちが中国でやってきたことは何だったのかと考えざるをえません……」
「ある村で、苦力〔クーリー〕として荷物を運ばせるために男たちを駆り集めたとき、私は高粱〔コーリャン〕畑に隠れている親子を見つけ、30代初めくらいの男を妻子から引き離して連行しました。その夜、男は兵隊の銃剣を奪って逃げようとして取り押さえられます。翌日、尋問に何も答えず、自分で石に頭を打ちつけて死のうとしたので、反抗的だとして小隊長が軍刀で男の首を斬りました。血が噴き出て凄まじい光景でした……」
その記憶は浜崎の心にしこりとなって残っていた。戦後になり、「あの男は自分が連行しなければ殺されずにすんだはずだ。残された妻と子はどうしただろうか」と考え、自責の念を感じ始めたという。
「中国で多くの住民を殺したあの戦争は、正義の戦などではなく大きな過ちだった、侵略戦争だったことに気づいていったんです。だから、これからは国の言うことを鵜呑〔うの〕みにせず、良いことは良い、悪いことは悪いと個人個人が自分の体験や考えに基づいて判断すべきだ、戦後はそういう時代になったんだと思うようになりました」
住民の立場から、国家や軍に対して言うべきことを言う厚木爆同の姿勢、半世紀を通じて形作られた“背骨”を感じさせる言葉である。
(文中敬称略) ~続く~