爆音のない静かな空を
~厚木基地周辺住民、半世紀の訴え~ <第8回>
厚木基地では1957年から翌年にかけて、米軍の主力航空機のジェット化に伴い滑走路が延長された。60年には、航空機大型化のため滑走路のかさ上げ工事も実施され、滑走路両端に安全地帯〔オーバーラン〕を設置することも決まった(65年に完成)。
やがてF-8 戦闘機やA-3 攻撃機などジェット機の離着陸、旋回が昼夜の別なく激しくなった。飛行爆音に加え、地上でのエンジンテスト音もひどく、騒音問題は深刻化する。19608月~9月、神奈川県が爆音測定をした結果、基地から北1 キロ地点での最大音量は129ホーンにも達し、1日の最多飛行回数は788機にも上った。
航空機騒音に苦しむ基地周辺住民からなる厚木基地爆音防止期成同盟(以下、厚木爆同)が発足したのは、米軍機の訓練が激化した時期の1960年9月であった。基地の北側、離着陸コース直下の大和市上草柳〔かみそうやぎ〕地区の住民が中心となり、会員は365 世帯だった。特定政党のひもつきではなく、住民自らがつくった団体である。
その後、大和市の他の地区、綾瀬市、座間市、海老名市、相模原市、藤沢市、町田市からも加盟者があり、現在の会員は約2000世帯だ。会社員、公務員、教師、自営業など職業は様々だが、近年は定年退職者が増え、高齢化している。
高度経済成長とともに、厚木基地周辺は首都圏のベッドタウンとして人口が急増した。厚木爆同の会員の多くは、ベッドタウン化のなかで新たに宅地・住居を購入した「新住民」だ。土地を見にきたのはジェット機が飛ばない日曜か土曜で、基地の存在に気づかず、ほとんどの人が「厚木基地は厚木市にある」と思い込んでいたのである。
かれらにとって航空機騒音は、せっかく家を建てたのに爆音によって生活が侵害される切実な問題だった。だから厚木爆同は1961年5月、横浜地方法務局と神奈川県人権擁護委員会に、「住民は爆音により甚大な被害を受け、墜落事故の危険により生存権を脅かされている。
安全で健康な生活を営む基本的人権を侵犯されている」と提訴し、「実情調査のうえ、人権擁護の立場から適切な措置を講じる」ことを求めた。
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