【アフガニスタンで取材中の綿井健陽】
流れ弾に当たることはあっても、取材中のジャーナリストをいきなり撃つ、というようなことは想像もしていなかったにちがいない。
事件の10分前、軍による鎮圧を警告するアナウンスが流されており、兵士たちがトラックで到着した時点で、すぐ現場を離れていれば惨事は避けられたかもしれない。
ジャーナリストが事故で死ぬときは必ず判断ミスがある。
南条や橋田のケースもそうである。ベトナム戦争まで遡れば、カンボジアで殺害された一ノ瀬泰造や沢田教一たちも、信じられないような大きなミスを犯していた。
私の経験では戦場取材でもいくつかミスは出る。
それをゼロにすることはできない。
私たちは神様の眼は持っていないからである。
デモ隊や軍、警察がどのような行動をとるかを完璧に予測することはできない。
ただ、戦場でも判断ミスがいつも「死」に直結するわけではない。
ほとんどは「冷や汗をかいたね」と笑い話で済ませることができる。
しかし、何回かに一度の割合で、致命的な事態をもたらすことがある。それが戦場取材のリスクというものだ。
山本美香は長井の死を「殉職」と表現した。
私もそう思う。
どの職業も同じだが、ジャーナリストにも職業的なリスクがある。
特に戦場ではそのリスクは高くなる。その危険性を充分承知したうえで、私たちは取材を行う。
日本でもっとも戦場取材の経験の豊富なジャーナリストのひとり、佐藤和孝は長井の死についてこう語った。
「タイでクーデターがあったときのシーンを思い出した。欧米のカメラマンが戦車の機銃で撃たれ、倒れた後もカメラが回っていた光景だ。毎年多くのジャーナリストが亡くなっているが、リスクを冒さない限り、何が起きているのかを記録することはできない。長井さんの事件ではビルマの軍政に対して大変な怒りを覚えるが、彼の死で私たちの取材のやり方が変わるということはない」
佐藤の言葉は大方のジャーナリストたちの気持ちを代弁していると思う。
フリーランスは往々にして組織的なバックアップ体制が弱いため、その分、取材上のリスクは大きくなる。
それでも、「危ないから行かない」という選択はない。職業上のリスクは引き受けざるをえない。
玉本は長井の事件について、友人の新聞記者のエピソードを苦々しい思いで聴いた。
ある大手の新聞社へ「ヤンゴンで日本人カメラマン死亡」の第一報が入ったとき、社内では「どうせ、どこかのフリーなんでしょう」という言葉が漏れたという。
そのような眼でフリーランスを見ている記者たちがいることは残念だ。
今回、ベテランのジャーナリストである長井の死は「尊い犠牲」と報じられたが、もし、死んだのが駆け出しのジャーナリストなら、マスメディアはその死をどのように報じたのであろうか。
この稿ではさまざまな視点からマスメディアを批判するような形でフリーランスのあり方を書いてきたが、誤解のないように言えば、私はフリーランス対マスメディアという二項対立的な図式にとらわれているわけではない。
なぜなら、成熟したジャーナリズムにとって、独立心の旺盛な組織に属さない、ジャーナリスト精神あふれる独立したフリーランスの存在は不可欠だと思うからだ。
フリーランスはいま多くの問題を抱えている。
そのほとんどは、旧態依然とした日本のマスメディアの構造から生じている。
その解決に取り組む主体的な努力こそ、求められている。
(敬称略) 了 映像ジャーナリストの現状を考える (1) に戻る >>