このような動きのため、青少年たちは「準戦時」という緊張感を、大人たち以上に強く持つようになっていた。
しかし、九〇年代の大飢饉の時に辛苦をなめ尽くした父母たちは、家庭で子供に対し、政府の言う「準戦時」なんかより、どうやって暮らしていくのかが重要だと、しっかり教え込んでいるため、「先軍政権」が、「準戦時」を機になんとか思想教化しようとした青少年たちも、時が経つにつれ、戦時動員の緊張感が、いつしかすっかり冷めてしまったとのことだ。
志願兵の募集と取り締まり強化
青年たちの志願入隊方式による軍人召募(募集)が八月に入った第一週目に行われた。
対象はこの年四月の人民軍召募で脱落した中学生と、二六歳までの社会人青年だった。その数は四月の軍隊召募生の規模に匹敵した。
このように、自ら前線に立とうとする雰囲気を青少年たちの間に作るために、
「我が朝鮮の方から、すぐにでも戦争をしかけるらしい」
「すぐに勝つだろう」
などと、戦争を積極的にけしかける、根拠のない流言飛語も飛び交っていたという。
召募生たちが軍服を着て清津市内を行進する姿が見られた。涙を浮かべた市民たちの応援や歓声があちこちで上がり、戦時的雰囲気が、少しは醸成されていた。
また、保安員(警察)と保衛員(情報機関員)によって、戦時動員態勢を無視して勝手に動き回っている人員について、組織体系的な掌握、及び報告事業が一層強化されている。各職場ではいつも出勤報告が強要され、人民班では戦争に備えた警備総括が毎日行われている(注2)。
「咸鏡北道清津市では、極めて部分的ではあるが、怪しい者に対する尾行が組織される場合もあった。一方で一般機関や企業所では、非常用背嚢とその準備品の点検が行われただけで、平時軍事訓練と変わらなかった」(記者コン・ヨンギル報告)。
一方、記者リ・ジュンによると、咸鏡北道茂山郡のような国境地帯の地域住民の通行や、清津市内での大量の物資移動については「辺区長の手形」なるものまで作って取締りを強化していたという。
この「辺区長の手形」については説明が必要だろう。
朝鮮の芸術映画「血の海」の中に辺という名の役人が出てくる。日本の植民地時代の物語だ。
当時、朝鮮人の移動は検問でチェックされていたのだが、市場に買い物に行こうとするする村の女性に、辺区長は通行手形、いわば「通行証明書」を書いて渡す。
次のページへ ...