APN_080324_tamamoto_002.jpg【写真:追悼式典には外国メディアも多数取材に訪れた(2008年3月16日撮影・玉本英子)】

3月17日に再びハラブジャの町を歩いた。町の景色は20年前のハラブジャとあまり変わらない。復興支援は遅れ、舗装されていない通りは前日の雨でぬかるんだ泥がひろがっていた。
「仕事がない」
多くの人びとの声を聞いた。そのため隣国イランに出稼ぎに出ている者も少なくない。

シャニヤ・アブドゥララシードさん(39)の家の前には女性たちが集まり、葬式が行なわれていた。シャニアさんの夫が3日前に亡くなったのだ。夫イスマイルさん(44)は当時クルド民兵ぺシュメルガの兵士としてハラブジャで遺体処理作業にあたっていた。

その後、日に日に体調が悪化、肌にしっしんができたり、呼吸困難になったという。それから20年間、各地の病院を訪れたが、原因は見つからなかった。それでも家族5人を養ってきた。それが2ヶ月前に急変、鼻から血を流し、苦しみながら死んだという。

「夫はなくなる前、これはハラブジャのせいだ、と話していました。もう20年もたつのに、ハラブジャは終わっていない」
シャニアさんは涙をこぼしながら語った。 (続く)
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