北朝鮮では、中央の一部の指導幹部を除き、みんなが対外開放を願っていると言っても過言ではない。
記者リ・ジュンによる開放をテーマにした報告を整理した。「私」は、リ・ジュンの知り合いの貿易商で、リムジンガン記者志願者である。
2006年2月初旬のある日、私は友人と共に、うら寂しい東海線のレールの上を喘ぎながら走る茂山(ムサン)行き列車の上級寝台車に乗っていた。
記者出身で、今や保衛部傘下のやり手の貿易指導員となった友人と私は、昔から本音で語り合うことができる親しい間柄だ。
数日前に電話で、彼が咸鏡北道に出張に行くことを知り、私もちょうどそちらの方面への取材をしなければと思っていたところだったので、ちょうどいいとばかりに一緒に行くことにしたのだった。
普段から電話で互いの近況を伝え合ってはいたが、こんなに長い時間顔を合わせて話し合うのは久しぶりだったため、列車の中でお互い積もり積もった話に花を咲かせた。
ふと気がつくと、寝台車の通路からは賑やかな咸鏡道の方言が聞こえ始めた。
列車が高原(コウォン)駅を通過したようだ。いつも感心する北行き列車内の珍風景なのだが、列車がこの線の主要分岐駅である高原駅を過ぎた途端、列車の中はたちまち咸鏡道の雰囲気に包まれる。
その前の駅までは何事もなかった寝台車の車内は、ここ高原駅からちょっと北に入っただけで騒々しい咸鏡道方言に占拠されてしまうのだった。
先日、汽車で海州(ヘジュ)に行ったが、その時も沙里院(サリウォン)で同じことが起こった。平安道の雰囲気が漂っていた列車の中が、突然、黄海道の世界に変わるのだった。
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