映画館に街宣をかけた右翼の青年や「反日映画」のレッテルを貼った週刊誌は、映画の内容うんぬんより、まず監督が中国人であるという事実に鋭く反発していた。「中国叩き(バッシング)」の発生する沸点は年々低くなり、中国への嫌悪感はちょっとしたきっかけでメラメラと燃えあがる。
むろん、言論の自由を認めず、民主化運動を厳しく取り締まる中国への批判は当然である。チベットについても、私自身、チベット自治区や亡命政府のあるインドのダラムサラなど、これまで六回の現地取材を行った経験から、中国による苛酷な弾圧の実態は承知している。いまもチベットではダライ・ラマ十四世の写真を掲げることも許されず、信教の自由は封じられたままである。五〇年以上もの間、中国が暴力的な支配を強いたことはまぎれもない事実である。
しかし、そのような中国政府の行為をもって、一般の中国人まで丸ごと「敵視」するのはまちがいだ。また中国の反日運動や脅威を持ち出すことで、日本のナショナリズムを高揚させるという愚も避けねばならない。
情緒的で過熱しがちな世論を沈静化させるのは、新聞やテレビの仕事なのだが、現実には逆に双方のナショナリズムを煽る場合も多い。四年前、中国で開催されたサッカーのアジア杯の報道はその典型だった。中国人サポーターたちの「反日的」な言動に対して、日本で中国非難の大合唱が起きたとき、「無軌道な反日運動」と中国側を批判する日本のメディアの論調は多分に冷静さを欠いていた。
私は日本と中国の決勝戦を北京のスタジアムで取材したが、騒いでいたのはごく少数の者たちだ。しかし、テレビでは「派手な絵(映像)がほしい」という要請に引きずられ、一部のもめ事を強調する内容となっていた。「中国はあぶない」という報道の影響で旅行の自粛も始まったが、当時、中国に居住する十万人を超える日本人に対して、暴力的な事件などはほとんど起きていないはずである。
日本には約十万人の中国人留学生や就学生がいる。彼らは日本にとっても、日中の架け橋となる大切な若者たちだ。その人たちを「反日」に押しやってはいけない。
いま求められているのは「敵意」ではなくて「対話」である。互いの言葉に耳を傾け、信頼の素地を築く努力を続けたい。
(08年5月信濃毎日新聞掲載分)