「安企部(韓国の情報機関の旧名、現国家情報員)から金を受け取ったら申し出るか、申し出ないか」ということが、この時、各幹部に向けられた検討項目だった。当時、幹部たちの机の上には「安企部の金」がわけもなく置かれていたが、もちろんすべてねつ造劇だった。
この時期、朝鮮人民軍第六軍団、国家安全保衛部、社労青(社会主義労働青年同盟)中央委員会、労働党中央委員会、社会安全部などの重要権力機関で大粛清と処刑と行われた。

金日成の死亡にまつわるうんざりするような混乱がようやく消えた一九九九年頃、金正日は突然「(みな死んでしまって)これから私は誰と革命を行えばいいのか」と言いだし、処刑・粛清された者たちに対する「極端的処分」を考え直すという逆転騒動を引き起こした。
これにより「極端的処分」の先頭に立っていた者たちが、処罰・粛清された人々を革命化から解除して「慰労」するという一大悲喜劇「事業」が行われた。二〇〇〇年のことだった。
(リュウ・ギョンウォン)

注2 龍城事件
九〇年代中ごろ、政局不安の中で労働党中央委員会が粛清の対象になった時期があったが、その時、中央党農業担当秘書だった徐寛煕(ソ・グァンヒ)が「ずっと身分を偽ってきた米国のお抱えスパイ」だとして、一九九七年旧暦の盆に平壌で公開銃殺となった事件。
あまりのことに人民たちも「もし本当に徐寛煕がスパイだったなら、金日成と一緒に農業部門の指導事業をしてきたこれまでの長い間に、どうして徐寛煕は金日成を殺さなかったのだろう?」という素朴な疑問を抱いたものである。この時から朝鮮では「自分の背中も信じられないから背を下にして寝る」と言う言葉が生まれた。
徐寛煕をスパイだと暴露したのが平壌市龍城地域の住民登録課長だったため「龍城事件」という名前がついた。
(リュウ・ギョンウォン)

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