警護兵が完全に仕切る「一号行事」
それは、ちょうど戦勝(北朝鮮では停戦を「戦勝」と呼ぶ)五〇周年の記念日だった。
軍部が準備した大規模な七・二七武力示威(軍事パレード)は、情勢が緊張したため、当日直前になって急に中止になった。その代わりに江原道にある近衛「オ・ジュンフプ」(注1)称号の軍部隊に対する最高司令官の視察が計画された。
「一号行事」を執り行おうとするととてつもない準備が必要になる(それは、軍隊時代に行事に関わったことのある兄たちにもよく分かっている)。行事保障(警護)は簡単なものではない。
その日の午前一〇時、私たちの部隊は「ジール」(ロシア製軍用トラック)数台に分乗して、視察を受ける区の分隊に乗り込み完全に占拠した。
私たちの部隊のその日の目的は、一にも二にも区の分隊に鉄のような警備網を敷くことだった。私たちの部隊は誰も信用しないのだ。
トラックからぞろぞろと降りてくる私たちの部隊を見て、現地の軍人たちとその家族は、一様に顔をこわばらせた。大尉や上尉の肩章をつけている、体のがっしりした完全武装の軍官(将校)たちがである。
我々はまず、その部隊の全員を集合させ、武器庫を占拠した。
次に、現地勤務をわれわれの部隊の軍官と交代させると同時に、もともとの勤務の兵員は完全に撤収させる。立哨はもちろん、遠くの潜伏哨所(穴を掘ったり自然物で偽装した詰め所)の人員まで交代させた後、鉄のような包囲網を形成する。
この時から、警戒区域に入る者は、無条件に射殺する。
* * *
「集められてどぎまぎしている現地の軍人と軍官の家族たちを、まず全員一所に閉じこめておくんです」
殺気を帯びてきた私の話し方に、兄たちは背筋に冷や汗をかいているようだった。
その日の軍官の家族たちのがっかりした姿は、言葉では表現しきれない。
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