北倉(プクチャン)18号管理所出所者の証言 7
「18号管理所」は企業所?
「18号管理所」には、いったいどれぐらいの人間が収容されているのだろうか。
私が来る少し前に得将地区が社会に戻され、そのとき六〇%程度が縮小されたと聞いた。
その残りのうちのリョンドン地区一つだけで一万五〇〇〇人位の収容者がいた。炭鉱で労働する者以外の、自動車の事業所だの何だのを合わせると、全部で五万人以上はいたと思う。
一日でも早く「管理所」から出たいとひたすら無心に働いていたある日、坑道の担当者が私を呼び止め、「君を推薦したからメダルを取りに連合庁舍に行け」と言う。言われた場所に行ってみると、そこには私と同様、勲章を受け取りに来た人々が集まって来ていた。
「党の信任と配慮により、懸命に働いた者に功労メダルを与える。鳳昌炭鉱連合企業所党委員会」
メダル授与にこのような口上が述べられたことに、私は驚いた。この場所を「鳳昌炭鉱連合企業所」と呼ぶのは初耳だったからだ。
地獄のようなこの「18号管理所」のどこをどう解釈すれば「企業所」なんて呼ぶことができるんだ?
私はその日、一人怒りに震えていた。なぜか、写真で見たナチスドイツのファッショ集団の、あのアウシュビッツ収容所の煙突の煙を思い出した。
二〇〇六年、その鳳昌が社会に戻された。九〇年代の政治混乱に対する二〇〇〇年の慰労事業以降、様々な問題が複雑に絡み合って、「管理所」の体制も混乱に陥った。
結局、「第18号管理所」は「移住民」一〇〇余世帯だけを連れて、この炭鉱地帯から价川の「管理所」へと移転することになった。
表面上は鳳昌石炭鉱連合企業所という看板を掲げていても、実際には完全武装した警備隊の軍人たちが私たちを警備・監視し、情け容赦ない暴力をもって統制していた。
私たちが受け取る配給カードの裏面には「朝鮮人民警備隊第二九18軍部隊」と印字されていた。私たちはこの軍部隊の「家族」ということになる。
朝鮮では何かあるごとに全員集合して首領と党に書簡を送る形式の宣言文あるいは決議文を採択するのだが、「管理所」でも祝日(首領や将軍の誕生日など)に集まって決議文などを朗読させられた。その末尾にも、所属は「朝鮮人民警備隊第二九18軍部隊」と出てくる。
私が初めて「管理所」にやって来た頃のことだ。
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