当時、松茸は国内の消費も国家機関からの輸出もされておらず、当然計画経済から外れた資源であった。
各市郡には、党外貨調達事業所が展開し、シーズンになれば松茸産地の各要所に買入所が設置された。

採取に動くのは、計画各下で国家が負担する食糧と労賃を受け取っている地域住民たち、そして軍人たちである。
党組織が無条件に制定した一人当たりの松茸ノルマを達成するために、「勤務時間に組織的に」職場を離脱し、山間を縫って松茸を採取して買入所に渡し、買取証を受け取って所属する組織に提出して、職場に復帰した。

松茸の交換対価として貰える品は「優待商品」と呼ばれた。
例えば、特等品である長さ約七cm、直径約四縲恁ワcmのクキ松茸(カサを開かない松茸を〝クキ松茸〞と呼んで珍重する)一kg(約二〇本)に対する対価は、わずか砂糖九kgであった。住民はこの「優待商品」の砂糖を農民市場に持って行き、現金と交換したのだ。
結局このような形で、「全人民所有」のはずの国家資源(注1)が、《国家計画経済》→《農民市場》→《党の外貨調達》という流れに吸い寄せられていった。

そのパイプはどんどん太くなっていき計画経済システムと人民生活は急速に侵されていったのである。
日本に輸出された松茸の販売収益の外貨は、国家統計や財政とは何の関係もない「党中央」という小集団の占有物となってしまった。
そして、その資金の一部が、首領の「四・一五贈り物」に、また一部は首領後継者の業績づくりに使われていくことになる。
さらに一部の資金で、資本主義世界の廉価商品を輸入して、国内の外貨商店(顧客は外貨を保有する富裕層)と、外貨調達事業所(顧客は輸出する品を収める一般住民)に販売して利潤を出した。
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