一九八九年に第一三次青年学生祝典をふらふらになりながら開催すると、朝鮮全国のあちこちで、食糧配給の途絶が始まった。
一方、計画経済の責任を担わされてきた人民生活は、どんどん疲弊したひどい状態に追い込まれていった。
そうすると、農民市場は住民たちにとってなくてはならない必須の経済システムに成長していった。計画経済は息絶えんとしている一方で、すでに農民市場と外貨調達ビジネスは活気を帯びて成長を続けており、それらは合流して一つの方向に動いて行った。
社会主義市場の崩壊に続いて、金日成死亡の翌年の一九九五年から、既に計画経済が破綻していた朝鮮に、さらに多くの変化が生じた。
この年に韓国から初めての支援米が到着しはじめ、朝鮮は世界の支援に依存する新時代に入ったのだ。
「世の中で一番の我が国」に生じるはずがなかった物乞いの〝コチェビ〞(ホームレス)が、街にあふれているのが現実の光景であった。
(つづく)
注1 「主席府」は、故金日成主席が執務していた錦繍山(クムスサン)議事堂の事務機構。「護衛局」は金父子警護専門機構で護衛司令部の別称。いずれももちろん特権機関である。
注2 順川ビナロン工場は、新しいカーバイト生産法を利用した総合化学プラントであった。八〇年代当時このプラントが操業すれば朝鮮の化学繊維、化学肥料、プラスチック問題が完全に解決するとされていた。
沙里院カリ肥料工場も化学肥料とセメント生産問題を完全に解決するとされた。
しかし、この二工場は基礎研究の未熟によって操業にさえ至らなかった。
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