第3章
日本陸軍の国家総力戦研究と「人的資源」
第1次世界大戦と日本陸軍将校
1914(大正3)年6月28日、バルカン半島の一角、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォで、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア民族主義者の青年が放った銃弾により暗殺された。
当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国の州のひとつだった。
しかし、1908年のオーストリア・ハンガリー帝国による占領・併合以来、ボスニア・ヘルツェゴビナに多数住むセルビア人の間には、オーストリア・ハンガリー帝国への反感が広まっていた。
隣接するセルビア王国への一体感を抱くセルビア民族主義者の活動も密かにおこなわれ、その背後にはセルビア軍の青年将校らによる民族主義秘密結社の存在があった。
オーストリア政府は、皇太子夫妻の暗殺にセルビア政府が関与していると非難した。セルビア側は否定し、オーストリア側の主張を裏付ける証拠も見つからなかった。
しかし、オーストリア政府は反オーストリア運動の全面的禁止などを強硬に要求し、同盟国ドイツと協議したうえで、1914年7月23日、セルビアに最後通牒を突きつけた。ヨーロッパの政情は一気に緊迫した。
セルビア側は譲歩を示したが、これを機にセルビアを叩いてバルカン半島での支配を固めようと考えるオーストリア政府は、7月28日、ついに宣戦布告をした。
こうした事態に、セルビアの後ろ楯であるロシアは即座に反応し、7月30日、全軍に動員令を下した。続いてドイツも全軍を動員し、ロシアとその同盟国フランスに対する二正面作戦へと踏み切る。フランスも軍を総動員する。
8月3日、ドイツ軍はフランスへ進撃するために中立国ベルギーに攻め込んだ。翌日、ロシアとフランスと同盟関係にあるイギリスも対ドイツ宣戦布告をし、ここにヨーロッパを中心に未曾有の戦火を巻き起こす第1次世界大戦が勃発した。
その時、ひとりの日本陸軍将校がドイツ中部の街エルフルトに滞在していた。前年に軍事研究員としてドイツに派遣され、エルフルトで語学研修中だった、陸軍歩兵大尉の永田鉄山〔てつざん〕である。
永田は後に、陸軍省軍務局長の要職に就き、陸軍統制派の中心人物として、国家総動員体制づくりに大きな役割を果たすことになる。
『秘録 永田鉄山』(永田鉄山刊行会編 芙蓉書房 1972年)によれば、サラエヴォでの皇太子夫妻暗殺事件から戦争へと急展開する状況下、永田は期せずしてヨーロッパでの戦局を観察する機会に恵まれたと、心密かに喜んだという。
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