第3章
日本陸軍の国家総力戦研究と「人的資源」
史上初の国家総力戦
第1次世界大戦において日本軍は、東アジアにわずかに駐留していたドイツ軍と短期間戦っただけで、大戦の主戦場ヨーロッパでの激烈な戦火を経験することはなかった。
1918(大正7)年11月のドイツ降伏によって戦争が終わるまでの4年3ヵ月余りの間に、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリアなど同盟国側と、フランス、イギリス、ロシア、アメリカ、イタリア、オーストラリアなど連合国側の双方で、合わせて7000万人強という膨大な数の兵員が動員され、そのうち戦死者は900万人を超え、負傷者も約2000万人に上った。
いかに血みどろの消耗戦が繰り広げられたかがわかる。
この前例のない深刻な戦禍がもたらされた背景には、参戦各国の工業生産力の発達によって大砲や機関銃など火器の破壊殺傷力と命中精度が高まり、しかも戦場に供給される武器弾薬の量も増大した事実がある。
さらに戦車や飛行機や毒ガスなどの新兵器も登場した。ヨーロッパ近代の生み出した科学技術力と工業生産力が、戦争の形態を変え、勝敗を左右する時代になったのである。
大規模な兵力を投入した長期の消耗戦は、兵員の大量動員と、兵器など軍需品の大量生産が伴ってこそ可能となる。
国民皆兵主義に基づく徴兵制が、数多くの男たちを、泥沼化した塹壕戦で知られる「西部戦線」など各地の戦場に送り込んだ。
軍需品の大量生産と輸送を支える労働力として、銃後の国民が女性も含めて動員された。
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