飛行機による都市への空爆も始まり、前線と後方の境目がなくなって銃後の国民にも被害が及んだ。
このように第1次世界大戦は、国家の総力をあげて戦われ、国民の総動員が必要な、史上初の国家総力戦となった。
必要に迫られた参戦各国は、軍需品の安定供給のため、工業生産力の維持そして向上を目指し、労働力の計画的配置や軍需工場及び原料の管理など、国家総動員体制を整えていった。
国家総力戦という新しい戦争形態の出現に対して、日本で最も強い関心を抱いたのは陸軍だった。
将来に備えて、日本も国家総力戦に対応できる体制を整えなければならないという問題意識からである。
1915(大正4)年9月、ヨーロッパ参戦各国の国家総力戦に臨む体制を調査研究し、日本でもそれに対応できる体制づくりを研究するため、陸軍省内に「臨時軍事調査委員会」(以下、「調査委員会」)が設置された。
委員は主に砲兵科と歩兵科の将校からなり、軍事研究員や観戦武官としてヨーロッパ諸国に派遣され、国家総力戦の実態を知る者が相当数いた。
前述の永田鉄山も再び軍事研究員として、1915年の秋にデンマークを経てスウェーデンの首都ストックホルムに赴任し、およそ2年間、主にドイツの新聞や雑誌や本を通じて戦況とドイツ軍内の教育などを研究した後、帰国して「調査委員会」の委員になっている。
『総力戦体制研究』(纐纈厚著 三一書房 1981年)によると、「調査委員会」の調査研究の内容は、ヨーロッパ派遣武官の調査報告記事を載せた一連の『海外差遣者報告』にまず収められた。
そして『臨時軍事調査委月報』が発刊され、そこに全般的な成果がまとめられていった。 ~つづく~
(文中敬称略)
1 2