その答えの多くは、経済制裁に対してイエス・ノーがはっきりしていた。
この質問に関して、ビルマの内側にいる者と外側にいる者の立場が明瞭に分かれている。
ココジー氏の返答の躊躇は、何とかして人びとが苦しまずに生活を改善していこうという当事者意識のためなのだろう。
【写真:デモ終結から2週間後、町中の兵士の姿も見られなくなり、夜間外出禁止令も緩和された。魚の卸売市場も活気を取り戻し始めた。(2007年10月撮影)】
喫茶店に入ってきた中年の男性とウエイターが、顔を寄せ合って話を始めた。
ウエイターが私たちの方を指差す。
するとその中年の男は、携帯電話を取り出した。
やばい。
私はココジー氏をその場に残して、喫茶店を後にする。
ホテルに戻るのに、いつものようにタクシーを3回乗り替える。
そろそろ限界かな。
数日後、いったん隣国タイ・バンコクに出国することにした。
事態が動いたのは9月半ば、マンダレーの北パコックにおいて、国軍兵士が僧侶に対して暴力を振るったことからであった。
僧侶は人びとの苦境を訴えるために、市内を行進し始めていた。
日本の仏教とは異なる上座部仏教を奉じるビルマにおいて、僧侶の地位は極めて高い。
市民は、自分の食べるものを控えてまでパゴダや僧侶に寄進する風土である。
例えばラングーン市内でバスに乗ると、一番前の席は僧侶専用である。
車内がいくら込んでいても、僧侶が乗ってきたら座っている乗客は僧侶に座席を譲る。
たとえそれが年下の僧侶であった場合でもある。
その僧侶たちが動いたのだ。
その動きは、まず地方から起こり、それから経済と政治の中心であるラングーンへと下ってきた。
歴史的に見ると、ビルマに置ける植民地闘争や民主化運動は、まずラングーンの学生や僧侶を中心に起こって地方に広がってきた。
だが、今回は反対だった。
地方から起こったのだ。
これは軍事政権としても意外だったのではないだろうか。
ウー・パパレー氏が逮捕されたという一報を、バンコクで聞いた。
平和裡に抗議行進をしていた僧侶に水や食べ物を差し入れしたのがその理由だという。
前歴のある彼のことだから、すぐには釈放されないだろう。